• Individual
  • マーチング・ドラムコーの世界で活躍するトップランナーを紹介

小林 敦/Atsushi Kobayashi

Drum Corps Fun vol.4(2009年4月18日発行)に掲載

インストラクター

小林 敦

「見てみい!小林の歩き方!みんなこういう風に歩け!」

マーチングをはじめたきっかけは吹奏楽部に入った事ですね。と言っても出身は高知の田舎なのでマーチングの存在なんか全然知らず、暑い中外で練習したりしていて正直嫌いでした。その時に教えに来てくれた先生が、当時須磨ノ浦女子校のベンチャーズの山本富男先生で、DCIや関西の色々な本番を知ったのもここからです。年1回ですが、山本先生のレッスンを受けるのが楽しみになって、今でもその時のレッスンはよく覚えています。決定的に好きになったきっかけが、母校の高知中高等学校(SouthernWings)の恩師の吉良先生が練習のビデオを見ながら、ここがダメとかここを気をつけてと注意していて、その時に「見てみい!小林の歩き方!みんなこういう風に歩け!」と言われてそれがすごく嬉しくて好きになりました。今思えば単純ですね。その一言がなければ今はなかったと思います。でも先生はその事は覚えてませんが…(苦笑)

それから、根拠なくアメリカに行くとずっと言っていたところ、顧問の先生が山本先生に話をしてくれてたみたいで話を聞きに兵庫の須磨ノ浦におじゃまさせて頂きました。その時に山本先生と話をさせて頂いた時にカナダのベンチャーズは女の子だけなので無理だけど、ベンチャーズを教えているブラスの人がダッチボーイを教えているし、最初からトップコーに入るよりも英語も生活もドラムコーも慣れるためにはベストなんじゃないかと言う事で、カナダのダッチボーイに入る事になりました。と言っても1990年に初ファイナル入りはしたものの情報はまったくなく、今みたいにインターネットがある訳でもないし、どんなとこなのだろうと言う不安でいっぱいでした。カナダに行くまではその時代のDCIに参加していた先輩たちに話を聞いたり、フォーメーションシート、ウォームアップの楽譜を頂いたりして、カナダに行く準備をしていました。

なんでわざわざしんどいことをする為にカナダきたんだろうとか本当に思いました

そして期待より不安の方が大きいままカナダに出発しました。最初の一ヶ月はホームステイでしたが、文化の違いや当然言葉の問題があり、ご飯であるとか家族でなにかをすることがないと部屋を出ないようになっていました。今思うと軽いホームシックだったのだと思います。そのかわりダッチボーイでの練習は楽しくて月一のキャンプ(合宿)が待ち遠しかったですね。そしてホームステイが終わると次はマーチングのインストラクターのアパートに転がり込むようになり、そこでは何もかも自由で近所にはダッチボーイの古株のメンバーがいたり、その人たちと暮らしていると、どんどんコミュニケーションをとるのが楽しくなってきました。そして待ちに待っていたツアーが始まります。日本で想像していた以上に辛かったです。特にダッチボーイは特別上手い団体ではなかったので、本番の点数が悪いと20分間楽器を構えたまま姿勢を崩さずに立っていたりとか、夜2時くらいまで練習して朝8時くらいから練習とか、なんでわざわざしんどいことをする為にカナダきたんだろうとか本当に思いました。残念ながらあんなに練習したのにセミファイナル(準決勝)にも残れず、クォーターファイナル(準々決勝)で僕の夏は終わりました。そんな中ファイナルを見ていると、来年はこの舞台に立ちたい、もっと上手い団体に入りたいと思うようになりました。

そこでツアーを回っているときに気になっていたのがブルーデビルスで、生で演奏を聞くと本当に圧倒され、いつの間にかここでマーチングがしたいと思うようになっていました。帰国してからは、母校を教えた後にオーディションテープを作る為の練習をすると言う毎日でした。いざオーディションテープが完成し送りましたが、どういう風に返事がくるのかも分からず12月になり一本の電話がかかってきました。親から「アメリカから電話みたい」と言う事を聞き電話にでると1月から来てくださいとのことでした。その時は本当に嬉しくて夢みたいとはこの事でした。ダッチボーイの時とは違いアメリカに行く事に対しての不安はなかったのですが、 やっていけるのか、ついていけるのか技術の面ですごく不安になりました。

お客さんが覚えてくれる楽しんでくれるショーを一つでも多く作りたいと思っています。

「ようこそ、ブルーデビルスへ、敦」

とうとうアメリカにやってきました。憧れのブルーデビルスです。ここで最初に感動したのは、初めて参加する練習でブラスアレンジャーのウェインダウニーがやってきて、「ようこそ、ブルーデビルスへ、敦」と初対面なのに名前と顔を覚えていてくれたのです。多分オーディションテープで顔を覚えていてくれたのだと思いますが、まさか名前で呼んでくれるとは、、、。その一言で入ってよかったなと本当に思いました。でもブルーデビルスは本当にシビアな世界でいつカットにされるかわからないし、途中でいなくなったメンバーもいました。毎週水曜練習だったのですが、それに向けてがむしゃらに毎日4、5時間ほど練習していたのを覚えています。その中で危機を感じたのが、お前のアンブッシュアは悪いから直せとインストラクターに言われ、これは直さないとカットされると思いシャワー浴びるときも、テレビ見てる時もいつでもマウスピースを持ってはアンブッシュアを直す事に必死でした。でもそのおかげでアンブッシュアも良くなり、今までとは全然音程も変わり確実に上達しているのがわかりました。ダッチボーイの時とブルーデビルスですごく違うと感じたのは、本当に細かいと言う事でした。演奏に関してはタイミング、音程、リリースと今となっては当然の事ですが、確実に座奏、立奏でしっかりしておかないとマーチングの時に影響があるということでみっちり練習していました。それに応じてマーチングのベーシックも半端ではなくしんどいもので、一日練習ではベーシックが3、4時間は当たり前で、それもくりかえしくりかえし…。それでも頑張れたのはインストラクターのタッドライアンという人がいてくれたおかげでした。すごくコミュニケーションを取ってくれる人で、メンバーのテンションのあげかた、リーダーの使い方、練習方法、どれをとっても一流で、本当に上手くなる為には基本が本当に大事なのだなとこのときに改めて感じました。練習の流れも本当に考えられていて、なにもかもがダッチボーイとは違うところでした。このブルーデビルスに入った1994年はすごく内容の濃い一年になりました。

人と人との接し方を意識できるようになりました

このアメリカとカナダの合計4年間は、マーチングを教えるときにすごく影響しています。たとえば、なるべくメンバーの名前を覚える事です。当然と言ったら当然かもしれませんが、名前で呼ぶことによって正確に伝える事が出来るし、何よりメンバーからは覚えていてくれているという一つの確認になるからです。あとコミュニケーションを大事にすることです。これはタッドライアンから学びました。彼は言葉の通じないカナダのフランス語圏のドラムコーを教えていた事があるらしく、言葉が通じないからこそ身振り手振りを使って教えたりとか、声に強弱をつけたり、人を引きつける話し方をしています。そういったマーチングの技術ではない人と人との接し方を意識できるようになりました。最近はメールであるとかインターネットなどの情報はすごくあるのですが、便利になったぶんコミュニケーションをとるのが下手な人が多いように感じます。上手くコミュニケーションをとることによって教える事にいかされているかなと思っています。
最後には楽しかったと言われるように日々努力しています

現在はマーチングインストラクターとドリルデザインをしています。マーチングを教えている時はなるべくメンバーが飽きないように、時間を忘れて楽しかったと少しでも思ってくれるような練習を心がけています。 練習の中にはマーチングだけではなく、バレエ、ウォーキング、競歩、古武術などいろんなジャンルの体の動かし方を取り入れていて、一人でも多くの人に体の使い方が分かるように心がけています。当然練習は楽しいだけではありません。キツい練習でも達成感や満足感での楽しさもあると思います。その中で頑張って最後には楽しかったと言われるように日々努力しています。ドリルデザインの方は思っている以上に産みの苦しみを味わいます。なにも浮かばないときにはなにも浮かばないけど、ふとしたきっかけでさっと書ける時もあるし、ほとんど引きこもり状態です。(苦笑)でもそれもメンバーたちが本番を終えたときに楽しいと言ってくれるから、お客さんが楽しんでくれるから、ドリルが書けるのだと思います。なので、少しでもお客さんが覚えてくれる楽しんでくれるショーを一つでも多く作りたいと思っています。

最後になりますが、僕がマーチングを教えていけるのもすべて繋がりだと思っています。母校の恩師の先生が武道館でのマーチングを見て感動しなければ、母校はマーチングを始めていなくて、山本先生との繋がりもなく、その時にお世話になったDCIの先輩達、母校の同級生、現在の一緒に関わっている人すべてが繋がりだと思います。

この繋がりはメンバーの一人一人にも言える事だと思います。社会に出たときに、吹奏楽やマーチングでの技術ではない、団体で一つのものを作る楽しさや難しさ、人とのふれあいなどの経験を生かして、少しでも繋げていって欲しいものです。

関連記事一覧