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  • マーチング・ドラムコーの世界で活躍するトップランナーを紹介

高林 真由美/Mayumi Takabayashi

Drum Corps Fun vol.2(2007年4月11日発行)に掲載

インストラクター/アレンジャー

高林 真由美

マーチングとの出会い

音楽との付き合いは3歳から。その頃から音楽教室でピアノ、音楽理論、作曲について習い続け、中学時代は吹奏楽部でクラリネットを3年間吹いていました。県立湘南台高校に入学し、軽音をやろうか悩んでいた私は友人の勧めで中学から引き続き吹奏楽部に入部することにしました。このときの湘南台高校吹奏楽部はブラスバンドだったんです。
高校入学から半年ほど経ったところで吹奏楽部顧問の羽場先生から『人数も揃ってきたのでこれからマーチングをやります』と発表があり、もちろんマーチングという言葉自体を知らなかった私は『マーチングって何?』と根本的なところがわかっておらず、そんな初心者はマーチングという世界があることを知ることとなった。

ここからが私のマーチングとの付き合いの始まりであり、同時に県立湘南台高校吹奏楽部White Shooting Stars (以降WSSと省略)の歴史の始まり。
このWSSという団体名を決めたメンバーの一員だった私はその時まだ高校1年生。
このときから現在に至るまで、これほどまでにマーチング漬けの生活になるとは当時を思えば考えもしなかったです。

そんなブラスバンドからいきなりマーチングバンドとなったばかりの部活は、何から何まで当たり前のような中学時代とは異なり、初めてのことばかりが続きました。まず楽器をクラリネットと似たようなフレーズがあるという理由で金管楽器のメロフォンに持ち替えました。しかし、ここでいきなり難題が・・・。楽器を持ち続けるという根本的な腕力が無かったんです。マーチングって当たり前のように楽器を持ち続ける時間が長くなりますが、こんな当たり前のことができず、練習の後はほとんど半泣きでした。そもそも楽器を持って歩くという以前にマークタイム(足踏み)自体すらできなくて習得するまで時間がかかりました。そんな状態だったので正直、スタッフが来る練習日が嫌いでした(笑)。

他の問題では個人的なものだけではなく、ブラスバンドからマーチングバンドへの切り替わりと同時に部員が辞めていき、最終的に残ったのは12人。この人数では当然のようにパートが1人か2人という編成になりました。楽器転向は部員のほとんどが行ったのでみんなが初心者同然。それなのに結成から半年後にはコンサートというハードなスケジュール。そのコンサートでも、ある曲のソロを任されることになり、金管楽器を持ち替えて練習が始まり数ヶ月経ったが音もろくに出ない状態だった私はさすがに無理だと思い、スタッフにその旨を伝えたところ、『音が出る出ないじゃない、やることに意義があるんだ』と説得され、数ヵ月後にはソロを吹いていました。今思えば多々こういうことがありました。部員が不安になることがあると、顧問の羽場先生やマネージャーはいつでも大丈夫だと安心させてくれたんです。揺るがないその存在はいつも安心を与えてくれました。

WSSが本格的に活動を開始し、初めてマーチングの大会に出場したのは私が2年生の時。この当時の目標はあまりにも大それており、今考えても達成できるはずのものではないと思いつつも振り返れば、自分自身がマーチング経験6ヶ月なのに部員勧誘から先輩としての指導を行い、初めての学校合宿、関東大会に進めないかもしれないという不安の中での県大会、関東大会推薦団体で読み上げられるまでの瞬間、推薦されてからの目標達成のためにスタッフとメンバーが一丸となった練習。その結果、関東4位と認められたこと、この1年で得たもの、言葉では言い表せない不思議な感覚がその後、マーチングの楽しさだと理解できたのは2度目の大会出場となる3年生のときだったと思います。

アメリカでの3年間

そのマーチングの楽しさを追い求めたくて高校生活も終わりに近づくにつれ、進学について当初は音大をと考えていたのですが、高校在学中に見続けたDCIのビデオや顧問、スタッフの影響もあって最終的にはアメリカに行くことを決意していました。
そこからがまた大変で、1年間のバイト生活と最大の問題は家族の説得でした。
しかし、最大の問題と思われた親の説得は顧問の手助けもあり、なんとか了承を得ることができ、一年後にはビデオオーディションで2002に尊敬していたキャプションヘッドのいたマジックオブオーランドにメロフォンで入団するになりました。
アメリカの生活では恥ずかしながらよく泣きました。まずは日本を旅立つときですね、反対していた親が空港まで見送りをしてくれたこと、アメリカでの生活が始まり、しばらくあとに日本の友達が手紙やお菓子をたくさん送ってくれたんですね、その度に感謝と共に涙が流れました。
そんなアメリカでのマーチング生活は、これもまた高校時代とは比較にならないインパクトのあるものでした。まず驚いたことは、スタッフはもちろんのこと、プレイヤーのプロ意識ともいえる個人の意識の高さでした。メンバー達は自分を表現しようとする気持ちが強く、そのため表現力が長けておりそれが演奏演技に現れているんです。それに追いつこうとしながら、私はといえば連日の練習と慣れない生活のせいか足を疲労骨折してしまい、痛み止めでなんとか練習には参加を続けていたのですが、ついに歩けなくなり見学を余儀なくされました。しかしドリルデザインのスタッフに『入れ!!』と怒鳴られ、足を引きずりながら練習に参加することも。練習の厳しさを目の当たりにした後は自分の弱さに泣く日が毎晩のように続きました。
結局歩くこと自体が危うい状態となり、私は退団を余儀なくされるのかと不安でしたが『君のスポットは残しておくから、早く元気になるんだよ』と一週間の休暇をもらうことになり、その甲斐もあってファイナルには復帰しその年をやり遂げることができました。スタッフの献身的な気遣いには本当に感謝しました。

“3年間で私は強くなった”ということ。

仲間達が本気で笑えるのは常に本気で生きているからだと思わせられました。

2003年も同じくマジックで過ごしエイジアウトとなる最後の年2004は最終目標でもあったキャデッツで一年を過ごしました。
2年目、3年目となるにつれ私自身に実感するものがありました、それは“3年間で私は強くなった”ということ。
単純かとも思いますが、でもこの一言に尽きます。
知らない土地で色んな人と出会い、コミュニケーションをとる、仲間達と共有した時間、毎年毎年違う楽しさがありました。それは長い修学旅行に行ったかのようでしたね。
仲間達が本気で笑えるのは、常に本気で生きているからだと思わせられました。
私も本気で笑い合いたくて毎日毎日を精一杯に過ごし、ファイナルの後は例えようのない充実感に満たされました。いつでも高い意識を持ち続けることがどれだけ大事なことなのか、精神的にも、技術的にも学ぶことが多かったアメリカでの経験でした。

マーチングをメジャーなものにしたい。もっといろんな人に知ってもらいたい。自分が経験してきたことを伝え、仲間として喜びを分かち合いたい。そのためには自分はなにができるのか。小さいころからピアノで即興で曲をつくったりするのが好きで、高校ではDCIの曲を耳コピーしたりとだんだんとアレンジャーという職業に興味がわき、高校3年生の時点で曲を書く仕事をするというのは決断していました。
そこで帰国後、大学に入学。楽器と音楽理論をはじめとする作曲、編曲理論を学びました。理論や技術もそうですが私の恩師はこんなことを教えてくれました。
『音楽だけではなく、色んなコトを経験しなさい。音楽にはそれを盛り込むことができる。』今でもいろんなことに興味を持つように、挑戦し続けるようにしてくれたありがたいお言葉でした。今はとにかく多くの曲を書き、たくさんの経験を積みながらいろいろな事を吸収して勉強しています。
最近の趣味はスコアリーディングでしょうか?スコアがパズルのようになっていてそれを自分で解釈していくのですが、どうしてもわからない場合は作った方が健在の場合は質問したりしています。作曲者によってその人らしさが作品にでています。私も自分らしさがでた作品を残していけたらと思います。母校のWSSや他団体からのアレンジ、指導をしながらの生活をしていたある日、私はブラストと出会います。

ブラストは技術もそれは素晴らしかったのですが衝撃的だったのはパフォーマンスでした。新たなマーチングの新境地を目の当たりにし、いずれ日本でもこのスタイルが流行るのではと思いを馳せていたときに、現在お世話になっている日本ビューグルバンドに誘われたのでした。

新しいパフォーマンスを提供するバンドを作ろう

日本ビューグルバンドは日本マーチングの先駆けとなった歴史のあるバンドです、知れば知るほど奥深いそのバンドで新しいことをするということに対し背中を押してくれたのは代表、副隊長のご厚意でした。挑戦することを教え、私達の気持ちに共感し応援してくれる代表、副隊長の気持ちに応えるためにメンバーを増やしていき、新たにバンドで何かを始めようかと話し合いをしていたときに私と現在の日ビマネージャーの頭の中では同じ考えがありました。それはブラストで目の当たりにしたそのパフォーマンスを自分達のスタイルで行おうというものでした。そのため30M×30Mのフロアからステージに場所を移しマーチングをより空間芸術的に特化させてステージだから出来る新しいパフォーマンスを提供するバンドを作ろうと活動を開始することとなりました。
ここでは忙しさは倍増です、練習場所の確保からメンバー管理など今までプレイヤーとしてやってこなかったことバンド運営がこれほど大変なことだとは・・・。ここでの日々も毎日が勉強で新たに経験することばかりです。宣伝になってしまいますが日本ビューグルバンドは今、4月30日に相模原市民会館での初コンサートに向けて慌しい毎日を過ごしています。祝日ではありますがぜひお越しをお待ちしております。

常に自分の意識を高くもつこと

私のマーチング経験の中でWSSの歴史、結成から始まる三年間、アメリカでの経験、現在での日本ビューグルバンド、他団体との関わりで学んだことは決して音楽、マーチングに限ることだけではありませんでした。そこで出会う人々に『 仲間の大切さ』から始まり『 集団生活でのあり方』『 常に自分の意識を高くもつこと』『 一つのことをやり遂げる楽しさ』 など、マーチングをやっていなければ学べないことを教わりました。
そしてその人々に自分がどれだけ支え続けられているのかと改めて気付きます。本当に感謝です。
たった12人から始まった私のマーチング人生はすでに何百人もの時間を共有したメンバーがいてその時、その時の目的に向かって、その喜びを分かち合ってきました。これからもそれは増えていくことと思います。
マーチングは毎回の練習が楽しいわけではありません、辛いことも苦しいこともたくさんあります。自分に妥協を許さないものでありながら、団体競技でもあるマーチングはみんなで一つの目標を達成したときの充実感には今ですら言葉では例えられない喜びがあります。それが大好きです。まだまだ止められませんね。

もしよければどこかで一緒にマーチングしませんか?

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