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  • マーチング・ドラムコーの世界で活躍するトップランナーを紹介

安藤 禎章/Sadaaki Ando

Drum Corps Fun vol.5(2010年4月30日発行)に掲載

インストラクター

安藤 禎章

その団体に応じたアレンジの重要性を感じ、独学で編曲方法を憶えました。

私が元警察官で、しかも警視庁音楽隊に勤務していた事を知る人は少ないと思います。入隊当時は、ユーフォニュームを吹いていたのですが、いつも後ろの方で目立つ事無く演奏する事が性に合わなくて、嫌々ながら吹いていたのですが、当時の隊長に呼ばれ、「安藤、お前オーボエをやれっ!」との”命令”で、国立音楽大学の先生を紹介され、(もうレールは敷かれていたようです)洗足池まで通う事になりました。ここには19年間勤務致しましたが、階級昇任と同時に音楽隊の都合で世田谷区内の警察署へ転勤となりました。転勤当時は慣れない仕事で右往左往しておりましたし、一時は転職をとまで考えました。ところが、見かねた交通課長に交通総務係(庶務)に任命して頂きました。

この時、警察署近隣の子ども達を集めて30人くらいで鼓笛隊「Kitazawa COMRADE Fife & Drum(キタザワ・キャムライド)」 を結成することを申し渡されました。これが私と鼓笛隊の始まりです。毎週水曜日に招集して練習を開始しましたが、一種”お客さん状態”の子ども達ですから、結構ご機嫌を取りながら活動した記憶があります。それにお姉ちゃんが卒業すると妹も辞めてしまう始末ですから、隊員の補充には苦労致しました。それでも協力的な小学校の教頭先生が学校に募集のポスターを貼ってくれたり、児童に声を掛けて頂いたので何とか演奏の体面を保てました。その際にその団体に応じたアレンジの重要性を感じ、独学で編曲方法を憶えました。
隊員が一番少ない活動は、5名だったと思いますが、この5名の隊員のパレードを見た近所の校長先生が感激して小学校を練習場所として提供してくださいました。それまでは警察署の中庭で練習していたので、「ミッキーマウスマーチが聞こえて取り調べが出来ないっ!」との苦情が相次いでおりました。

日本ビューグルバンドの門を叩きました。

まだ私が警察音楽隊に勤務している時に、これからは演奏を十分アピールするにはドリルが効果的と考え、日本ビューグルバンドの門を叩きました。今もマーチング業界の各所でご活躍されている方々にはお世話になりました。全国大会で日本武道館のフロアで演技出来た事を感謝しております。丁度その時期はビューグルバンドも転換期の頃だったので、京浜女子大(現鎌倉女子大)の体育館(当時は自宅が東京の府中市だったので、2時間30分くらいかけて練習に行ってました。)に5人くらいしか集まらなかったこともありますが、徐々に隊員が増えてきたことを憶えております。その他にも平和島競艇場の駐車場や日本屋楽器さんにお世話になりました。マーチングの楽しさも、深さも、厳しさも経験した事が良い思い出です。基本的な動きの鍛錬としては十分な物だと思います。ここでは実働は3年くらいでしたが、神奈川県大会、関東大会、全国大会の出場、つくば科学万博などの行事を経験しました。

ここまでお話しすると私の生き様が、有名な独逸行進曲”旧友”を作曲したカール・タイケに似ているような気がします。同じ楽器(オーボエ)で同じように軍楽隊を去って、最後はポッダムの音楽警察官として生涯を終わった訳です。
私も音楽隊を転勤してから、彼を目指して音楽には一層の精進をするようになりました。旧友と言えばダイナスティジャパンの横田社長とは、かなりの長い付き合いです。私が出入りしている新宿のオーボエ専門店に勤務している頃からの付き合いで、彼は英会話の特技を生かして社長秘書をしておりました。その後マーチング関連会社を立ち上げ、DCIツアーも企画し、これも腐れ縁で9回ツアーに参加しました。これだけ多く渡米出来た事には家族の絶大な理解があったこと、スタジアムでの演技に大きさを感じた事もあります。

腐れ縁と言えば避けて通れないのが“1989京都ジョーカーズ”(現京都ジョーカーズ)があります。丁度京都から来ていた当時の隊長だった方を横田社長から紹介され、(私の人生は紹介が多いのです。)意気投合し、以降上京の度に会ってはマーチングを熱く語りました。いつの間にか、私の手元にもコージャンパーが贈られて、色々と言いたい事を言わせていただくようになってから、スーパーバイザーと称される栄誉を賜りました。インオカで一緒にパレードしたり、DCJではスタンドから”ブリッジメン”もどきで演技を盛り上げる応援するようになりました。

『演奏が出来る』ことに感謝して、力一杯出し惜しみをせずに 演奏・演技する気持ちが必要だと思います。

アレンジ次第で演奏は大きく変わります。

現在は、神奈川県大和市の上和田地区に約25年前から結成されている地域の鼓笛隊「カミワダ・クローバーズ」の指導者として活動しております。この団体との出会いは、当時前出の警察署も転勤になり、所謂”マーチング浪人”でブラブラしている時に、ひょんな事で遊びに行っていた座間少女トランペット鼓隊指導者の方から「指導者に困っている団体があるのだが、指導をお願い出来ないだろうか」と紹介され、取りあえずリハーサルを見学に行きました。帰り際にクローバーズの世話役の方が「どうか引き受けてください。」と泣かんばかりに懇願され、仕方なく「ハイ!」とお返事したのが運の尽き。 ”腐れ縁”は15年以上になります。私は最初はアシスタントだったのですが、チーフであった幼稚園の先生がお休みがちで、いつの間にか来なくなったので、繰り上げ指導者としてカミワダ・クローバーズの歴史の半分以上は関わっております。現在は、楽曲の全てを自分のオリジナルアレンジで演奏しております。それに楽器の奏法から、マーチングのMM、ドリルの作成までアシスタントは一切無く一人で行っております。得てして“鼓笛隊”と言うと相手にされませんが、アレンジ次第で演奏は大きく変わります。それに団体音楽の基本であります。現在マーチングバンド、ドラムコーで活躍している方の中にも出身者はいらっしゃるかと思います。この団体は、どちらかというと演奏を重視して、あまり派手な動きはありません。それに本番行事もかなり少なくて、じっくり練習が出来るので、演奏が重視されます。元々団員が多くなかったので、少ない人数で演奏効果を出そうとアレンジに知恵を絞ってきたので、和音を多く使って音に幅を持たせました。それに、これまで長く演奏してきた経験を生かして、個人に負担を掛けずに全員で曲を仕上げる方針を取っております。今年の夏には活動拠点の団地祭りで、保護者の提案で”夏祭り”を演奏する事になり、「この歌を歌いたい子いる?」と聞いたところ、元気に「ハイっ!」と手を挙げた子がいたので、当団体では始めての試みとして鼓笛隊の伴奏で歌を導入する事になりました。(歌伴のアレンジは意外に楽でした。)これからも年に1曲くらいは入れたいと思います。子ども達には、団体音楽の楽しさを教えていきたいと思います。

中身の濃い演奏・演技のために益々の努力精進をして行きたいと思っております。

65歳のオジイちゃんでも小さいながら“未来の夢”は持っております。本当ならば早いとこお迎えが来て、若い方々のご負担(年金)を軽減しなければいけないのですが、まだこの世の中にやり残した事が沢山ありますし、勉強する事も沢山あります。世の中の流れに逆らわず、パソコンで楽譜・ドリルを書くようになりましたが、まだまだ未熟であります。きれいに見易く書けるだけではなく、真に中身の濃い演奏・演技のために益々の努力精進をして行きたいと思っております。

音楽は、自分が楽しむものとお客さんに楽しんでもらうものと2通りがあると思います。どちらにしても“演奏が出来る”ことに感謝して、力一杯出し惜しみをせずに演奏・演技する気持ちが必要だと思います。それで、多くの方々に聞いて頂き元気になって頂ければ最高だと思います。これまでの音楽活動で感じた事は、マーチングは一人ではない。必ず手を貸してくれる、助けてくれる仲間がいると言う事です。事実、行き詰まった時には、ドラムコーの後輩達の応援を頂いております。吹奏楽団、管楽器アンサンブル、オーケストラ、ハワイアンバンドなど、多種多様な音楽活動を経験した私としては、他の音楽活動では、感じなかった事です。以前DCI団体の練習を見学して、コー・ディレクターの方から”落ちこぼれを出さない。””隊員を怒鳴るな、相手は小さな紳士・淑女だ。””サポートしていただける多くの方々に感謝して演奏・演技する。”と言う事を聞いて、以後自分の指導教訓にしております。

前出のオーボエですが、未だに止める気配は無く、毎日数時間は練習しております。団体に入って活動する事も試みましたが、全ての練習や演奏に参加する事が出来ません。かと言って私が唯一吹ける楽器です、いつか子ども達と一緒に演奏出来るよう数曲のアレンジもしてあります。
これまで指導した生徒に、プロの演奏家になった者も数名おりますが、カミワダ・クローバーズの子ども達の中から、DCIのフィールドに立ってくれたら嬉しいのですが。

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