• Individual
  • マーチング・ドラムコーの世界で活躍するトップランナーを紹介

ボビー 大槻/Bobby Ohtsuki

Drum Corps Fun vol.1(2006年4月27日発行)に掲載

テンハット代表/大和青少年芸術協会エグゼクティブディレクター/ドリルデザイナー/プログラムコーディネーター/鼓喇舞(コラブ)プロデューサー

ボビー 大槻

高校の時はパレードがめっちゃキライでした。

音楽との出会いは幼稚園の頃始めたバイオリンです。近所の子が習っててかっこ良さそうなんで僕も!という単純な発想でした。小学校低学年まで5年間習い続けて「チゴイネルワイゼン」とか弾けるようになったんですけど、いつまでたっても何故かヴィブラートができず、自分には向かないと思い断念してしまいました。十数年後、当時一緒に習ってた子が京響(京都交響楽団)で立派に弾く姿を見た時はめっちゃショックでした(笑)。中学の時は、どのクラブに入ってもろくに続かなかったんで、高校に入ったら絶対3年間続けようと決め、京都の大谷高等学校吹奏楽部に入りフレンチホルンを担当し、普門館(全国大会)を目指してました。うちの高校は当時マーチングはやってませんでしたが、たまにあるパレードでは、「歩いて吹くなんて、しんどいだけや」といつもイヤでした。当時はパレードと言えばマーチ。ホルンはメロディーが全くなく、あと打ちの連発だったこともその原因で、とにかくめっちゃキライでした(笑)。

結局高校では、京都代表として関西大会には出場できましたが全国には行けず、その夢を果たすため、大阪の近畿大学吹奏楽部に入り、やはりホルンを担当しました。すると意外にも普門館への夢はすぐに叶い、1年生の時から全国の舞台に立たせてもらうことができました。しかも金賞受賞! ひとつのことができたら、すぐ新らしいことがしたくなるのが飽き性の僕の悪いクセで、大学で初めて経験したマーチングに夢中になっていきました。当時のマーチングはステップとブロックフォーメーションが中心で、足上げ(マークタイム)とガッツ(根性)がすべてって感じでしたが(笑)、その達成感や、ホルンにもメロディーがあって思いっきり吹きまくれることも大きな魅力でした。大学の吹奏楽部は応援団の流れで、練習はもちろん規律など、それはそれは厳しく大変な毎日でしたが、その時の経験が今の僕を創り上げているんだと、今では本当に感謝しています。

山本先生とブリッジメンの存在なしでは僕のマーチング人生を語ることはできません。

その後、母校大谷高校の指導を手伝うことになり、その頃から取り組み始めていたマーチングのショーを創らなければならないことになりました。演技の経験はあってもショー創りなどチンプンカンプンだった僕は、当時日本唯一でトップクラスの高校ドラム&ビューグルコーの顧問である、須磨ノ浦女子高等学校の山本富男先生のもとを訪ねました。先生は、どこの馬の骨か分からないような僕を、とても親切丁寧にご指導して下さり、ショー創りのノウハウを様々教えていただきました。そしてその時見せてもらったブリッジメンのビデオが僕に衝撃を与えたんです! バナナコートと呼ばれる斬新な黄色いユニフォームを身にまとい、高度な技術と数々のジョークやパロディが繰り広げられるブリッジメンのショーには、面白いことがカッコイイと常々思っていた僕にとって、これ以上のものがない程ピッタリとはまりました。今風に言えばオモロかっこいいって感じでしょうか(笑)。山本先生とブリッジメンの存在なしでは僕のマーチング人生を語ることはできません。山本先生にはその後も今もずっとお世話になりっ放しです。本当にありがとうございます。

それからというもの僕はブリッジメンに夢中! 当時はまだ珍しかったビデオデッキを無理して購入し、ショーのビデオをダビングさせてもらい何度も何度も何百回と観ました。そのうち観ているだけでは物足りなくなり、京都ジョーカーズ(現:ジョーカーズ)を結成しました。もちろん編成はブリッジメンと同じドラム&ビューグルコー。何も分からないままの見切り発車でしたが、ブリッジメンと同じことがやりたいという思いからだけのスタートでした(だから黄色&バナナなんですよ)。そして次には案の定、生で観たい!となって渡米。初めて観るDCIはすべてが夢の世界そのものでした。それからは病み付きになり、ほぼ毎年渡米。そのうちブリッジメン関係者とも知り合うことができ、独自の握手の仕方や、掛け声、ドラムソロでやるステップやキックラインなど直接教えてもらうことができ、どんどん取り入れました。そして結成3年目にして念願の武道館(M連全国大会)に出場することができましたが、この時ドラメだった僕が指揮棒代わりに持っていたバナナで、ジャッジの先生方に向かって撃つマネをしてしまい大顰蹙を買ってしまったことは今でも忘れられません。敬礼代わりのジョークのつもりが、「ここは日本なんや」と思い知らされた瞬間でした。

この明浄時代は僕のマーチング人生における青春時代と言っても過言ではありません。

その後、大阪の明浄学院高等学校吹奏楽部からお呼びがかかり、学校に勤めながらマーチング指導をすることになりました。当時の明浄はマーチングと言ってもまだまだで、専用の楽器はスーザフォンとボロボロのバッテリーしかありませんでした。フロントベルなど様々な整備や本格的なマーチング導入を理解してもらうのに随分時間がかかり苦労しましたが、赴任5年後、監督に就任した際には、すでに吹連マーチング全国出場を果たし、その年に武道館に出場することもできました。更に翌年には日本初となる吹連M連両方の全国大会に同年出場することも達成し、赴任当時60名程だったメンバーも、その頃には170名になって新たなるシンフォニックなマーチングを目指しました。オーストラリアのムーンバフェスティバル・パレード部門チャンピオン、アメリカ・サンディエゴのホリデイボウルでの全部門優勝グランドチャンピオン、そしてアメリカ・パサディナでの世界最大のパレード、ローズパレードにアジア代表として出場するなど数々の遠征もしました。監督引退までの間、吹連全国では2度のグッドサウンド賞、M連全国では4年連続金賞受賞することもでき、この明浄時代は若かりし日にメンバーたちと共に目標に向かって駆け抜けた僕のマーチング人生における青春時代と言っても過言ではありません。こんなに楽かった日々は2度と返ってこないでしょう。

明浄学院での任務を終え、独立後、アメリカ・カリフォルニア州に本社を置くマーチングワールド・インターナショナルの日本支社であるマーチングワールド・ジャパンを設立、マーチングの本場アメリカと日本の架け橋となるべく活動を始め、日本国内の数々の団体を指導、ドリルデザインやプログラムコーディネートなどを手掛け全国大会へと導きました。同年、念願であったブルーデビルズのサマーツアーに同行し、ビジュアル・キャプションヘッドであるタッド・ライアン師匠に弟子入り、ドリルデザイン及び指導法を更に学びました。それまでほとんど独学でやってきた僕にとって、それは大きな裏付けとなり、更に多くのことを学べたことは大きな自信へと繋がりました。

この時、ブルーデビルズ・スタッフのみなさんには大変お世話になったので、そのお礼も兼ねてブルーデビルズ・ブースタージャパンを設立、ブルーデビルズの一員として日本から支援することになり、翌年のブルーデビルズ来日の際にもスタッフとしてサポートしました。

そして大和誕生へ

そのブルーデビルズ・ツアーでの経験を生かして、念願の大和ドラム&ビューグルコーを創立し、プログラムディレクターとドリルデザイナーを兼任しました。大和はご存じの通り、日本から毎年DCIにエントリーすることを目的としたドラムコーで、発想から2年で実現に至りました。アメリカ・カリフォルニア州から認可された非営利青少年育成機関、大和青少年芸術協会に属し、今年でいよいよ創立10周年を迎えることになりました。これまでにDCIワールドチャンピオンシップ・ディビジョン3に於いて、銀メダル(第2位)2回、銅メダル(第3位)3回、ファイナリスト(決勝進出)7回、スピリット・オブ・ディズニー・アワードを2回受賞しています。

人間何でも思い切ってやってみるもんですね。

大和がDCIに出場するという夢が叶うと、その次は自分自身がドリルデザイナーとして本場アメリカで仕事がしたいということに思いが募っていきました。そのきっかけとなったのは、大和と同じくDCIディビジョン3ファイナルに出場したヨコハマスカウツの、僕がデザインしたドリルがアメリカのマーチング専門誌「フィールド&フロア」のドラム&ビューグルコー・オブ・ザ・イヤーのベストドリル部門にキャバリアーズやサンタクララ・バンガードと共にノミネートされたことでした。ぶっちゃけ「もしかしたらアメリカでもいけるんちゃうか」と思ってしまい、思い始めるといてもたってもいられなくなる僕は、わずか1ヶ月程で、アメリカ・カリフォルニア州コスタメサにオフィスを開設し、1年の3分の1はアメリカでという生活を始めました。そしてその結果、ブルーデビルズのジョン・ミーハンとスコット・ジョンソンが経営する、JKSミュージックにドリルデザイナーとして迎え入れられ、リンドバーグ高校マーチングバンドを始めとするアメリカの団体のドリルデザインを手掛けることになりました。アメリカの高校はメンバー全員で200名以上とかは当たり前で、デザインするのは大変ですが、サブセットの多い僕のドリルはディレクターやスタッフにも喜んでもらえ、今でもずっと描き続けています。人間何でも思い切ってやってみるもんですね。

ずっとアメリカ、アメリカだった僕も、最近やっと国内に目が向くようになりました。自分がアメリカから学んだことを多くの人々に伝えていき日本のマーチングの普及発展に努めるべきだと! きっと歳取った証拠なんでしょうね(笑)。何かを残していきたくなったようです。その手始めとして、大和がアメリカで開催しているDCIの大会、WCC(ウェスタンコーコネクション)を日本でも開催できないかと考え、わが故郷京都で昨年より開催することが実現し、本年1月無事第2回目を大盛況で終えることができました。ますは発表の場を増やすことが発展の第一歩と考えます。また一昨年からはM協関西連盟の審査委員会にお招きいただき審査法の見直しを計っています。昨年の関西大会では日本初となる8人それぞれのキャプションでのジャッジを実現することができました。今年は更に発展させるべく話し合いを進めています。

新たなるマーチングの可能性を追求するテンハット社を創立しました。

昨年秋、マーチングの新しい可能性を追求するためテンハット社を創立しました。その第1弾としてブラストのスーパースター、アダム・ラッパを招聘し、ブラストの時とは一味違う彼の素晴らしい才能の一部を紹介しました。そして今後もアダムの日本国内での活動をサポートしていくことになり、彼のデビューCDの国内盤リリースも予定しています。そしてそのアダムもゲスト出演する大和創立10周年記念公演「倭音」(WAON:仮題/2007年3月24日(土)於:大阪厚生年金会館大ホール)の企画運営を担当。かの石川直監修のもと、プロデューサー、芸術監督として新境地を開拓します。僕は人から「脳みそが柔らかい」とよく言われますが、確かに自分でも柔らか過ぎると思ってます。これが良いことなのか悪いことなのかはよく分かりませんが、僕はすっとこのままでいたいです。そして次の時代を支える若者たちに様々な活躍の場を与えていきたいです。分かる人には分かると思いますが、マーチングには「こだわり」は絶対必要ですが、それが「こりかたまり」になってしまってはいけないと思ってます。自分の考えを他人に押しつけたり、自分が理解できることだけが正しいというような、凝り固まった年寄りには絶対なりたくありません。

なぜボビーなのか!?

これに関してはよく聞かれますが、話せばめっちゃ長くなるんで、また次の機会にでもゆっくり話せれば良いですね。どうしても知りたいって方は直接下記までメールいただけたら、母校大谷高校の機関誌に「なぜボビーなのか!?」というタイトルで書いた文章があるんでもれなくお送りします。まあ誰も興味ないとは思いますが・・・(笑)。ボビーと呼ばれて良かったと思うことは結構多く、まずはみんなにすぐ名前を覚えてもらえること。あと、指導に行くと我々指導者はたいがい先生と呼ばれることが多いですが、僕はこれがどうも苦手で・・・もちろん明浄時代は先生と呼ばれてましたが、まあ言うたら、メンバーよりちょっとマーチングに詳しいぐらいで先生などと呼ばれるのは、いかがなもんかなぁとずっと思ってました。大槻と名乗るとたいがい大槻先生となってしまいますが、「ボビーと呼んで下さい」と言うと、ボビーとかボビーさんとか、みんな気軽に呼んでくれます。メンバーとはできるだけ同じ目線でいたいものです。

夢は諦めない限り、いつか叶うものです!

このようにマーチングと出会って約20年程の間に、様々な夢を追い続けて来ました。これらの夢は、ここでは語り尽くせない多くの仲間たちの協力なしでは実現できませんでした。この場を借りて「本当にありがとう!」とお礼が言いたいです。こうやって振り返る機会もあまりなかったので、今回自分にとっても良い機会になったと思います。でも編集部からの1番目の質問に対して、予定のページが一杯になるほど長々と語ってしまいました。男のしゃべりはみっともないと思いつつ、いつも関西弁でしゃべりまくる僕を良くご存じの方々は頷けることと思いますが・・・。その他のたくさんの質問については、これもまた次回に機会があれば語ってみたいです。もちろんこれからもまだまだ夢を追い続けていきますよ! 夢は諦めない限り、いつか叶うものです。こんな僕に共感して下さる方がいらっしゃったらぜひ下記までお気軽にメール下さい。共に夢を叶えましょう!

関連記事一覧