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武田 宗大/Motohiro Takeda

Drum Corps Fun vol.4(2009年4月18日発行)に掲載

トランペットプレイヤー/ブラスインストラクター・作編曲家

武田 宗大

その輝きは私の目に突き刺さりました。

小学1年生から2年生の頃、某音大付属中高ピアノ科に通っていた二人の姉の影響もありピアノを始めましたが、それまで外で遊ぶ生活習慣になっていた私には、じっと座ってピアノを練習するという環境変化は退屈なものでした。結局ピアノは、2年弱で辞めてしまいました。そんな中、音楽自体は好きだった様で、ピアノや音楽が絶える事のない家庭環境は好きでした。トランペットとの運命的な出会いは小3の時、近所の質屋のショーウィンドーからキラキラ輝く眩しい光りを放つ「物体」が目に飛び込んできました。騒然と物が並ぶ中、ビンビン感じさせる存在感とその姿。私は、それをテレビの中から小さく見た事しかありませんでしたから、その輝きは私の目に突き刺さりました。それ以来、その質屋には足しげく通い、時を忘れてその「憧れの大スター」の姿に釘付けでした。ある日、一大決心をして「トランペットやりたい!」と両親に言ってみるものの、ピアノを2年弱で辞めた事を引き合いに出され、あえなく却下、撃沈しました。でも、そんな事で私の心が折れることはなく、それ以降めげずに2年間、隙あらば「トランペット!」を連呼しました。ちょうど小5に上がった時の事です。当時通っていた川崎市立浅田小学校の創立30周年記念に、新しくブラスバンドクラブが出来る事となり、私の独断と偏見で勝手に入部しました。運動会でのドリル演奏や学校横の商店街パレードなどを通し、初めてマーチングというものを経験しました。その後突然、父が私の誕生日にトランペットをプレゼントしてくれました。

ビューグルのパワーと美しい倍音列に乗ったハーモニーに心を奪われました。

その後、関東学院中学に入学し、本格的にマーチングとドラムコーにはまっていきました。高校に上がる頃には密かにDCIでプレーしたいという思いが強くなり、学校の英語はてんでダメなのに、放課後には英会話スクールに通い始め、着々と自分の中で準備を開始しました。
高校を卒業しエスカレーターに乗ったまま大学へ上がり、とりあえず自分の目でDCIを確かめたいと、18歳の夏だった1990年に観客として渡米、その衝撃はやはり本物でした。脳を激震させるそのビューグルのパワーと、美しい倍音列に乗ったハーモニーに心を奪われました。

その感覚は、今でも耳の奥に焼き付いています。

92年のマジソンスカウツのオーディションにソプラノビューグル(トランペット)で合格し、大学を休学して参加しました。初めてのツアーは毎日、本当に厳しく辛い日々でした。自分の想像を遥かに超えたレベルの練習で、本当にしんどいと思いました。練習の量もそうですが、1回1回のテイクが本番同様の緊張を求められる「質」を重視した内容の連続で、肉体的にも精神的にも終日緊張を強いられる日々でした。しかし、夜になりショーが始まると熱狂的な観客の声援が、疲れた体に鋭気を注ぎ込んでくれました。そして迎えたDCIファイナルは、地元開催という事もあり、キャンプランダルスタジアム全体から響く観客の声援と熱気は地響きの波となり私の体を包み込み、足下から脳天まで共振、心臓を揺さぶりました。おかげで、出だしのソプラノソロが聞こえず、バックフィールドを向いているビューグルラインは、ステップオフが揃いませんでした。それがそれまで4位だったのに、ファイナルで5位に落ちてしまった一つの原因かも知れません。でもそんな観客を味方に、エキサイティングなショーが出来たと思います。ツアー中はコーメイト達とフリスビーなどで遊んだ事も思い出ですが、インディビジュアルコンテストにもエントリーしていたので、暇さえあればその練習をしていました。
2年目だった93年は、ディレクターよりリードメロフォンが足りないから移ってくれないかと相談を受け、即答で「No Problem!」と答えました。この年は、体力的にも精神的にも慣れていましたから全く問題なく、昨年とは打って変わって逆にルーキーを絞っていました。そして21歳特権。自由時間があれば気の合う仲間とバーへ行ったり、ビールを買って来てエイジアウターやスタッフと一緒に飲んでいました。もちろんこの年もインディビジュアルにエントリーしていましたから、その練習もしっかりやっていました。ビールと練習の両立の甲斐もあり、ドラムコーミッドウエスト大会ではインディビジュアルでメロフォンのソロチャンピオンになり、チャンピオンジャケットを頂くハプニングもありました。授賞式の事など何も知らされてなくて、ふらふら歩いていた所をスタッフに呼び止められ、急いで本部へ行きました。でも、当時ホームステイ先でお世話になっていたスネアのジェフ君(現マジソンスカウツのエグゼクティブディレクター)が私の代わりにジャンパーに刺繍する名前とサイズを手続きしてくれていました。そのジャンパーは、今でも大切に着用しています。

また、93年のツアーで一番強く印象に残っている出来事は、DCIファイナルの日のウォームアップでした。この時演奏した「You’ll Never Walk Alone」のサウンドといったら、今思い出しても鳥肌が立ちます。弧になった男64人から繰り出されるビューグルのフルパワー、歌うように滑らかなメロディーの流れ、一糸乱れぬハーモニーの移り変わり、全てに整ったアンサンブルをする喜びを心の底から味わい、自然と涙が頬をつたいました。その感覚は、今でも耳の奥に焼き付いています。そんな経験や感動を次世代の人にも味わって、ワクワク、ゾクゾクするアンサンブルを体感して欲しいと思って指導しています。

大好きな音楽漬けの4年間は幸せそのものでした。

エイジアウトした後一時期、廃人になったように目的を見つける事が出来ずに数ヶ月過ごしました。そして新たにジャズ、特にビッグバンドに目覚め勉強を始めるのと同時に、ベイマックスという、当時横浜に出来た新しいドラムコーの指導も始めます。今までメンバーとしてやってきた事を論理的に筋道立てて教える事に、苦労の連続でした。1995年と97年にはベイマックスのDCIツアーにインストラクターとして参加、改めて教える事を意識した側面からの指導法の必要性を感じました。そんな指導と指導される両方の生活を送っていましたが、本格的に本場のジャズイディオムを勉強したく、ジャズの本場アメリカへ渡る事を決意しました。1年半程の留学準備の後、Berklee College of Music(以下バークリー音大)へと旅立ちました。もともとバークリー音大には、演奏者になる為のパフォーマンス学科に籍を置いていましたが、必修の音楽理論と作編曲の授業を履修していくうちに、次第に作曲のおもしろさに目覚め、学科を変更して作編曲の勉強を中心にしました。在籍していた4年間の後半はジャズ作曲の授業をほとんど隈無く履修し卒業しました。毎日作曲の課題に追われて、24時間、寝ている夢の中でもメロディーとハーモニーが頭の中を駆け巡り、作曲の課題を考えている時もありました。学校には毎日12時間籠り、その後は家で宿題をするという生活に悲鳴を上げつつ、そんな大好きな音楽漬けの4年間は幸せそのものでした。
夏休みには、ボストン近郊で行われるドラムコーの大会を毎年観戦し、また2000年には創価大学プライドオブソウカのアメリカDCIツアーにもインストラクターとして同行しました。
バークリー音大卒業後はそのままボストンに滞在し、在学中より続けていたプロとしての演奏活動を1年間継続しました。この間には、アメリカ合衆国第42代大統領ビル・クリントン氏出席のJ.F.ケネディー図書館で行われたパーティーで演奏する機会に恵まれました。こうした大学外での演奏活動も、大変充実した良い経験でした。無理難題を押し付けられるも、それが可能か不可能かで簡単に解雇されてしまう、リードトランペットという職業の過酷な荒波にもまれました。

「人にやさしく、技術に厳しく」

「出来なかった」事が「出来る」様になるという事は嬉しい、楽しいものです。

そして2004年夏に帰国し、2年半程は母校にてコーチの経験を積み、2007年度からは、現在の神奈川県立湘南台高校吹奏楽部White Shooting Starsなどで、金管楽器のプレイングテクニック(奏法技術)とアンサンブルテクニック(合奏技術)の双方の技術的な部分を中心に指導しています。これらの指導法は、私の演奏経験上培ったアンサンブル技術の他、マジソンスカウツ時代に師事したヴァン・マシューズ氏(現ブルーデビルスを指導)から影響を受けています。
人間誰でも「出来なかった」事が「出来る」様になるという事は嬉しい、楽しいものです。私自身もそうです。そんな喜びを感じてもらえる指導を、いつも心がけています。私自身、色々な先生のご指導に恵まれ、今ここに「私」が存在します。それが今は逆の立場で、若い世代に指導を通し恩返しする様々な機会を与えられる事は本当に嬉しいです。また、初心を忘れず、逆の教えられる立場になってみて「教わる側」の気持ちを理解する事や、その指導者からコーチングのノウハウを得ています。私のバークリー音大時代の恩師もそうだったのですが、アメリカのプロトランペット奏者の間でヨガが流行っています。その影響もあり、私も興味本位で始めた趣味のヨガレッスンや水泳レッスンから、教える為のコーチング技術を参考にしています。

苦悩を打ち破った時に見せるキラキラした瞳とその表情には毎回感動し、私も一緒に嬉しくなります。

普段から私が一番大切にしているモットーは、「人にやさしく、技術に厳しく」です。指導するほとんどの場合、一人ひとり年齢も違えば経験や技術力も違います。楽器経験もほとんど未経験の人からかなり経験を積まれた人まで、それら複数の人達をまとめて指導しなければいけない時などもあります。その様な状況でも、出来るだけ一人ひとりの音色を聞き、個別にアドバイスしたり、自分の目線を下げて理解しうる言葉を使い、「今一番必要な事から順を追って」きちんと理解させ、やって「良い事」と「悪い事」を白黒はっきり提示し、グレーゾーンを作らず、なるべく理由も説明しながら教えるように心がけています。また、短期的な課題や目標を与えながら進めます。そして、コミュニケーションや意思の疎通もはかり、返ってきた反応や受け答え等からも相手の理解度を探り、彼らの体と頭の中の双方の状態を正確に把握し、確認を行います。そんな中、自分の選んだ言葉に疑問を投げかけ、果たしてその言葉がベストチョイスだったのか、もっとベターな指導方法はなかったか、ぐるぐると頭の中で思考錯誤を繰り返します。予想以下の効果しか現れなかった場合にも、「あの時、他の選択肢の指導法はなかったのか」と、自分の指導を客観的に自己分析してみたりして反省します。練習やレッスンを重ねていても、人間には器用、不器用ありますから、一概に良い結果が直ぐに現れない場合もあります。そんな時にも慌てず、まず相手のメンタル面に気を配りながら、冷静に様子を観察して前向きに問題点と向き合うようにし、中長期的な練習計画を一緒に考えてあげるようにします。何度も何度も、方向は同じでも、言葉やアプローチなど方法を変えやりとりを繰り返します。でも、そんな苦悩を打ち破った時に見せるキラキラした瞳とその表情には毎回感動し、私も一緒に嬉しくなります。この瞬間は指導者として、何事にも代え難い喜びを覚えます。ここまでのテーマが「人にやさしく」です。
こうして出来る様になった事を継続させる為に、しっかりした技術の管理を行うようにシフトチェンジします。これが「技術にきびしく」です。一度出来た事は、同じ事を考えて実行すれば必ずもう一度出来るはず。なぜ継続されないのか、何が違うのかを引き続きしっかりチェックし、技術の継続を体と頭で覚えるまで反復させていきます。出来るまではやさしく諭し、出来てからは厳しくそれらを継続的にチェック。大会にエントリーしている団体への指導では、特に厳しいチェックが入ります。そんな天職に巡り会えた事へ、喜びと感謝を感じながら、初心を忘れずに情熱と根気を持ち、取り組んでいます。

常に「良いものは取り入れる」、そういうフットワークの軽快さを失わないようにもしています。

「マーチングだから音がきたない」とか、そのような偏見を社会から払拭出来るように、しっかりした音楽性や吹奏技術とマーチングテクニックの両立した指導を心がけ、今でも日々勉強を続けています。私が現役でDCIに出場したのは90年代初頭ですから、現在は15年程、吹奏技術とマーチングテクニック双方とも進化しているといってよいでしょう。色々な情報、例えば「どこの団体は、どういう理由その方法を採用している」などの情報は取るようにしています。そして、それを日本の土壌に合わせながら取り入れています。また音楽は生き物なので、流行、廃りがあります。ですから、技術的にも音楽的にも、いつも柔軟なスタンスで向上心を忘れず、常に「良いものは取り入れる」、そういうフットワークの軽快さを失わないようにもしています。

吹奏技術に関しては、私自身が音大生の時に一番のめり込んだビッグバンドジャズを始め、大学内外においてサルサ、ボサノバなどのラテン音楽やファンク、ロックなど様々な演奏経験と、日本に戻ってからの演奏経験に裏付けされた、音楽にしっかりマッチした音色や雰囲気を大切に音楽性重視の音作りを心がけています。響きの内面にまで耳を傾けさせ、それぞれの音の持つ重さや軽さ、濃度や粘着度、温度感や色彩感など、実際には見えませんが音を通して感じる事の出来る臨場感のあるサウンド作りを目指しています。これらの指導では、バークリー音大で培った作編曲と演奏、音楽の構造的な部分の知識と表現力やフレージングといった演奏技術の両方が活かされています。自分が実際に演奏する事をイメージし、肉体内部の細かな動作の移り変わりを具体的に技術的に解説して歌ってみせたり、時には私が実演して見せたり、また言葉でフレージングや細かいニュアンスなどを抽象的に説明したりと色々織り交ぜています。幅広い表現力と音楽の理解力、そして音楽を耳や肌で感じて演奏してもらう為、様々な手段や方法を取るようにしています。そして、最終的に音楽に合った音色のハーモニー、メロディーの優雅な流れを感じとれる表情豊かな演奏を目指し、指導を行っています。また、演奏者自身が楽しみ、喜びを感じつつ演奏をする様な練習環境作りや、そうして出来た音楽が、一人ひとりの観客の心にまで届くような「気持ち」の伝わる演奏演技、その雰囲気作りも心がけています。

楽しく幸せに楽器を吹くストレス・フリーな奏法を、この日本のマーチング界にも、もっともっと広げたいです。

バークリー音大在学中に一番お世話になった恩師、タイガー大越先生の熱心なご指導の甲斐もあり、マジオ奏法(教則本著作が68年ですから、楽器やマウスピースの技術機能革新を考慮、多少自分なりに修正を加え現代の理に適う形で実践)によって音色も音程もみるみる改善していきました。これ以降、本当に楽器を吹く事が無理なく無駄なく、楽しいものになりました。
アメリカ生活で培った技術を、より多くの人たちにも実践して頂いて、楽しく幸せに楽器を吹くストレス・フリーな奏法を、この日本のマーチング界にももっともっと広げたいです。音色や奏法で悩んでいる人達、全ての人を美しい音色にしてみたい。全国全てのマーチングバンドから、ダイナミックかつ美しい、素敵な色の音楽が奏でられる日が来ることを夢見ています。

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