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【マーチングプログラム教室】vol1.マーチング・ショーのプログラム

Drum Corps Fun vol.2(2007年4月11日発行)に掲載

国際マーチング研究所 所長

横田 定雄

マーチング・ショーのプログラム

日本では、音楽的、視覚的なショーの作り方を勉強できる学校や組織、場所や機会が少なすぎる。まずは音楽を勉強し、そしてそれを目で見ることができるようにする勉強が必要だ。アメリカではマーチングの基本的なところは希望すれば大学で勉強できる。それなりに先人が書いた教科書もある。管楽器、打楽器、ビジュアルデザインなど基本の勉強は誰でもできる。言うまでもないがマーチング専門家になるにはアメリカでも学校だけでは無理で、舞台芸術などと同様に、観客が評価するショーを作るにはさらに経験と知識を持たなければならないのは古今東西を問わない。2年や3年でできるものではない。音響的知識、舞台芸術的知識、スポーツ医学的知識、舞踊、芸能的知識、視覚心理学、ノンバーバルコミュニケーション、表現学などなどいろいろと絡んでくる。奥も深いし、幅も広い。

マーチングのショーの構成について基本をブリーフィングしてみよう。まずは一定時間内に構成されるショーであることを念頭に置くこと。つまり、ストーリーがあろうがなかろうが、始まりがあり、終わりがある。印象に残る作品にするには主たるクライマックスが必要になる。人生に例えるなら、生まれてから死ぬまでに何かしら思い出を残したいのが人情である。人間が作り、人間が見るのである。だから見ている人になんらかの思い出を残さないと作品、コミュニケーションにならない。この場合見ている人は自分たちのことではない。家族や友人、そしてさらに他人である観衆のことである。ショーの作り方はこの人たちといかに皆さんがコミュニケーションできるかを問うことから始まるのである。

ストーリーなら起承転結がある。原因(始まり)があり、展開(影響)し、どんでん返しや反発などのクライマックスがあって、解決(終わり)がある。ストーリーでなくとも、発芽、成長、開花、結実などのような、時の流れや自然の法則に沿ったものになる。つまりすべては人間の生理、心理において合理化されるものでなくてはならないという、人間であるが故に、人間のための作品でなくてはならないという理由がある。

人間がこうした作品に対していちばんつまらないと思うのは、興味のない、退屈で、変化に乏しく、感じるものがないもの。誰がやろうと、よほど惚れているか、洗脳されていなければシンクロニシティーが生じない。生きていることを感じさせてくれるショーを作ること。生きている人間がやるから、生きているショーになるというわけではない。今日ではロボットでもかわいらしいショーをプログラムされればプログラムされたとおりのショーを再現できる。見ていて人間的感情がわくのを禁じ得ないこともある。つまり、人間が見る以上、ショーが人間的であることが肝要で、ショーをやるのが人間だろうがロボットだろうがあまり関係ない。プリシジョン(精度)を求めるマーチングショーでは時には人間は機械のように動く。そこに個人の生命はあまり感じないが、全体をひとつとして大きな人間像がみえてくる。ホリスティック(全体を個としてみる)な主張が出てくるのである。この点がショーの構成の基本である。これを理解しないとやっている者と見ている者にシンパシーが生まれない。

ひとつの例をあげてみよう。2006年のDCIのキャバリヤーズのショーは文字通り研究初期のロボットの滑稽な動きを取り入れたものであった。コミカルなタッチと幾何学的デザインで興味が湧く。もちろん前述のセオリーは計算しているようで、途中で人間的な主張(音楽)が取り入れられる。ごく当たり前の理屈なのだが、重要なポイントは極端なまでにロボットの属性と、対する生身の人間の属性を並らべて、強いコントラストを見せるようにしないと何の主張であれ分かりづらい。実際、ロボコップのような無骨な所作と大きな幾何学的デザインがビジュアル的印象を残して時が過ぎた。機械と人間、どちらがコラテラルなのかは明白なのだが、観衆には何が思いとして残ったのか。とても常人にはできないすごいショーだったが、人間的、感情的に魅了される大きなクライマックスはなかったと筆者は見ている。ロボットのコミカルさだけならこのショーを単にエンターテインメントとして見るという解釈があるだろう。チャップリンのモダンタイムズほどの笑いとペーソスは想起される由もない。

ショードリルのいくつかの方法論

人間が束になって、群衆になってある種の集団行動をする。これを見ている人間にはある種のシンクロニシティーが生じてくる。つまりその集団がどういう意図を持っているのか、われわれに類似するものがあるのかどうか。類似すれば共感が湧くが、類似しなければ反感、敵意をもつ。また分からなければ無視する。マーチングのショーもその例外ではない。要は、パフォーマンスする群衆が別の無関心な群衆にどうアピールしてシンクロニシティーを生むかと言うことになる。いくつか、発展的段階とその要素を含めて区分しよう。


共にシンクロしやすい音楽を用いる。= 心理的には効果はあるが、それだけではフィジカルな連鎖は生じにくい。踊りや集団的示威行動を伴うと効果が大きくなる。これは座奏のコンサートとの違いであり、マーチングのショーでは基礎的な要素である。


音楽にのせて動き、適当な幾何学的な形やその変化を用いてある意図を示そうとする。 = 動きに視覚的音楽性が伴うようにすること。テンポにあわせて動いたり踊るだけだと、体を鍛える体操のように見えてきて、ショーにクライマックスのような感情と肉体の調和のとれた昂揚はあまりない。


音楽に基づいて動きや変化があり、ほぼ常に感情的に引き込まれ、目が離せない。音楽的フレーズが視覚的フレーズとしてシンクロする。 = ときに音楽がその動きのためにあるという風にすら見えてくる。音楽がまさに目で見えるという感じで一体感が強く出て感動的になる。


音楽も動きも特に意識させずに、すべてから出てくる意図のみが伝わってきてパフォーマンスする者とまさに一体になるという状況。芝居というとらえ方は消えて、観衆も自己のテーマとして捉える。感動の連続で何がどうしてなどと理性が絡む瞬間がほとんどない。

こうしたことはプログラム構成の研究課題でもあり、ショーマンシップの教育課題でもある。初心者レベルが1であり、2が中級、3が上級。4はプロフェッショナルなレベルである。

また、ショーの作り方はこのようなレパトワのジャンルから、ショーマンシップの基礎的知識をバンドメンバーに与えることが重要である。大半が、ノウハウを教えることなくショーマンシップを子供らに要求する教師が多いのが実情である。成人の多い一般バンドには負けるとか、アメリカ人は表現力がもともとあるとか言う教師がいる。でもどうしてそうなのかを検証して欲しい。ショーマンシップとは人間性の再現であるのだ。人前でスピーチができ、演奏演技ができる。すべて個性の発露である。ショーの中の人物も、現実の学生も同じ。ショーが人物を造るのだ。

確かに恋の歌は恋してからの方が有利かもしれない。身内の死を経験したことない子供に悲哀のこもった演技力を求めるのは無理だろう。しかし問題はそうした割り切りが教師の側に一種の諦念になってはいないかと言うことである。無関心なら話す機会もないかもしれないが、すこしでもそうしたことを子供らが見聞き、体験しているのだから、やはり男女の交際などでの表現方法、言葉遣い、仕草などにどういう意味があるのか話し合ってやる必要がある。マーチング活動、ショーのテーマにも頻繁に取り上げられる内容に結びついている。

ノンバーバルなコミュニケーションがいかに大事かはおおかたの人間が理解している。子供もしかりである。テレビ、雑誌などでは、大人も子供も、健康、化粧、ファッション、占いなどを通じて、いかに好印象を持たれるようにするか、朝から晩まで気にかけている。マーチングのショーマンシップも基本的にはこれと同じである。たとえば、カラーガードに女性らしい演技を振り付けたならばインストラクターのするべきことは察しがつくだろう。雄々しい演奏にはどのようなマインドコントロールが必要かぐらいは優秀な指揮者は当然心得ている。

たとえば、音楽的にソロ奏者が出たときに、定石通りにカラーガードのアカンパニメントをつける。たしかに昔のマーチングショーでは、旋律が聞こえてもどこにソロがいるのか探さなければならないほどステージングが下手だった。最近は観衆の心理を理解して、どこも工夫している。しかしながら、次にこの二人はどういう関係で互いに何を伝えようとしているのかが、観衆のただひたすら関心事であることを理解してない場合が非常に多い。

おおよそのバンドでは、強くフォーカスコントロール(視点設定)されたこの二人がなんと距離的にも、仕草の面でも分離しているから観衆はおもしろくない。つまり心理的にまったく失敗し、指示されたことをしているだけの幼稚で退屈な演技になっているのだ。観衆は人間であり、ショーであるが故にステージの心理に非常に敏感であり、そのためにショーを見に来ている。なんど言ってもいいが、観衆は音楽を聴きに来ただけではない。こうした二人の設定となれば、通常はわれわれは二人が敵対、友情、愛情、無関心の関係なのか状況を読もうとする。男女の要素があれば心理的ペアになる。音楽と舞踊という、あつらえたような一体感を感じる以前に、基本的に両者の関係を示す距離、内面心理を表現する仕草などが状況解説として必要なのである。明瞭なふたりのアイコンタクトから始まって、二人のジェスチャーなどの絡みが重要になるのである。これ以上は詳述しなくてもおわかりだろう。

マーチングのショーマンシップも、総じて基本はこのようなたったふたりの人間のコミュニケーションを指導することから始めるのが肝要だということを言いたい。なんど繰り返しても言いたい。バンド全体が素晴らしい名演奏、名演技で盛り上がってもこの二人が退屈だったら観衆の感動はブチ壊しになる。逆に素晴らしいソロプレーヤーがいるバンド、カラーガードは成功する要素が備わっているのだ。個の成長を促せる団体はすべてが良くなるという連鎖があることは観衆もよく知っている。

ショーの観衆とのコミュニケーションは、出演者が観衆と直接語り合うことでは必ずしもない。観衆はショーの中で出演者同士がどのようなコミュニケーションを取り合っているかを見ているのである。何を問題にして、どうして愛し合っているのか、憎しみあっているのかを見ているのである。観衆はショーを眺めていたいのではなく、何をしているのかを観察しているのである。マーチングのショーはテレビ、映画、舞台のショーと何ら違うものではない。芝居をしていると思われているようではショーにはならない。ショーが、役者自らの現実の人生ですというようなプロフェッショナリズムが出てきて、観衆は本当の観衆になれるのであり、本当に観衆として楽しめるのである。

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