【座談会】広岡徹也氏×鈴木脩氏

Drum Corps Fun vol.1(2006年4月27日発行)に掲載

元関東学院マーチングバンド顧問

広岡 徹也 氏

NPO法人神奈川県マーチングバンド・バトントワーリング連盟理事長

鈴木 脩 氏

現在ではすっかり定着しているマーチングバンドの基礎を作った元関東学院マーチングバンド顧問の広岡徹也先生と、日本ビューグルバンドの初代ドラムメジャーであり、現NPO法人神奈川県マーチングバンド・バトントワーリング連盟理事長を務められている鈴木修氏に、日本におけるマーチングバンドが進歩してきた歴史と苦難の道のりを語ってもらった。

広岡
私は昭和31年に芸大の声楽科を卒業してすぐに関東学院に奉職しました。その当時父が吹奏楽連盟の会長をやっていた関係で、私も吹奏楽をやるよう芸大の先生からも言われていましたので、在学中、副科では打楽器をやっていました。関東学院に入った頃は横須賀にある米国海兵隊のビューグルバンドが好きで追っかけをやってまして、(笑)
土曜、日曜にどこで練習をしてるのかを聞きつけてはよく見学に行ったものです。当時は銀座やこどもの国でパレードをやっていたのですが、そのときのドラムメジャーがとてもかっこ良く見えて、絶対にこれから日本で流行ると思い、私は自ら警視庁音楽隊の方に教わりに行って、関東学院にこれを取り入れました。確か昭和34~5年だったと思います。ちなみに最初にドラムメジャーを教えたのがここにいる鈴木君だったんですよ。そして、もっとマーチングを勉強して、いろいろなことを取り入れたいと思って夏休み、春休みのたびにアメリカの大学で行われている講習会によく参加しました。もともと私の専攻は声楽で、ソルフェージュで育った人間ですから、ハーモニー、音程、リズムなどが合っていないとすごく気持ちが悪いんですね。ご存知のようにもともと音楽にはフレーズ感覚というものがあって、それに合わないマーチングは私としてはとても納得できませんでしたので、主に音楽のフレーズと動きのフレーズの合わせ方を意図的に勉強しました。
もう一つアメリカに行ってわかったことは、アメリカのマーチングは聞いているお客さんに動いて訴えるものであるということです。日本の吹奏楽は自分たちがいい演奏をしていればよいという方がおられるようですが、マーチングというのは動きながら音楽を表現しますから、それだけに音楽を聞きながら、動きを見ているお客さんとのコミュニケーションがとりやすいんです。これをよく理解できないと、次のステップには進めないんですよ。奉職当時の関東学院は座奏のみでしたから、このマーチングの魅力を取り入れて音楽を表現しやすくしました。

鈴木
私が関東学院の高校一年生のとき、アメリカで勉強して帰ってきた広岡先生が関東学院にマーチングドラムだけのバンドとして鼓隊を作り、私が初代のドラムメジャーとして出発しました。そのときに初めてユニフォームを作りました、色はモスグリーンだったと思います。その当時としてはカッコ良くて、横浜国際仮装行列(みなとまつり)等のパレードや色々なイベントに出演していました。

広岡
その後、私が女子生徒を集めてバトントワラーのチームを作って、鼓隊+バトンという編成にしました。ちなみにバトンはアメリカのパデュー大学にゴールデンガールズというチームがあったんですが、そこで学んできました。

鈴木
その後、私が高三のときにノーピストンのビューグルが導入され、紅白歌合戦に日大横浜学園(現日本大学高等学校吹奏楽部)と一緒に出演しました。そのころはノーピストンの楽器が日本にはなかったので、オランダのシェンケラーやフランスのクレロンなどの楽器を直輸入して使っていたんですよ。で、私が大学に入学したときにこの楽器を日本で作らせよう!という話になりまして、ノーピストンの信号ラッパみたいなB♭管を板金屋さんに頼んで作ってもらったんですが、音程もよくなかなかの楽器でしたよ。しかし、ソプラノだけでは音が薄くなってしまうのでフランスからバリトン、バスクレロンという1ピストンの楽器を輸入して使っていました。この頃に関東学院と日大高校の卒業生が、卒業しても今で言うマーチングバンドをやりたいということでOBバンドを作ったのが、日本ビューグルバンドだったわけです。その後、第1回日本ビューグルバンド発表会を横浜文化体育館でおこなったんですが、そのときは京浜女子大学中・高等部トランペット鼓隊(現鎌倉女子大中・高等部マーチングバンド)、日大高校などが一緒に出てくれました。東京の小学校の鼓隊にもでていただいたと記憶しています。その発表会と同じ年の12月に、規模を大きくしてその名前も「第2回パレードバンドフェスティバル」という名称になってしまい、日本ビューグルバンドの発表会を乗っ取られた形でおこないました。だから、第2回になっているんですよ。これが現在の全国大会の前身なわけですから、今の全国大会は日本ビューグルバンドの発表会の延長線上に発展してきたわけです。すでにこのときには13団体近くのバンドが出演していました。もちろん米国海兵隊のビューグルコー、神奈川県警音楽隊も賛助出演していただきましたよ。それと前後して、多くのパレードバンドを集めてパレードバンドアソシエーションを作ろうという動きになって、昭和42年に「日本パレードバンドアソシエーション」を創設いたしました。その後はパレードバンドから「全日本マーチングバンド連盟」と名称を変更し、さらにバトンチームの加盟が増えると共に、「全日本マーチングバンド・バトントワリング連盟」になっていったんです。

広岡
私がはじめてマーチングのドラムメジャーをやったのは1964年の東京オリンピックの前夜祭で、東京の小学生2800人の鼓笛隊でした。その次にやったのは広島でおこなわれた国体です。この頃の小学生の鼓笛隊はトランペットが入るか、入らないかくらいの時期でした。そして日本のマーチングを定着させたのは1970年の万博でした。その後に2000人の吹奏楽となって関西では発展していきました。関東では先述したように横浜文化体育館の第1回日本ビューグルバンド発表会から始まったんですね。その特徴としては関西方面はとにかく実行してから理論はあとから、というスタイルに対して関東から北は、まず理論をしっかりやってからそれで実行する、というスタイルであるというのがあります。こういうかたちでマーチングは関東、関西を中心に広まっていきました。当時私は関東学院の先生をしていましたから修学旅行でいろいろな地方へ行く機会も多く、地方に行ってはその地方の吹奏楽連盟の先生とお会いしてマーチングやりましょうよ、って言いました。正確には動いた吹奏楽をやりましょうって言ったんです。

広岡
一番苦労したのはどのような方法で日本にマーチングを広めようかと言うことでした。日本では学校に普及するのが一番と考え、特に公立の学校に普及しなかったら絶対に普及しないと思いました。一般団体や私立もだめです。なぜなら私立はお金を持っているからできるのだと思われてしまうからなんです、ですから公立ありきなんです。特に横浜市内の小学校は私立より公立のほうがとても多いじゃないですか。だからあれだけマーチングが普及しているんだと思っています。私は私立の教師だったので、公立の先生はあまり知らなかったんですが、幸いにして吹奏楽連盟の理事をやっていて理事会にも出ていましたから、そのつてでたくさんの先生にお会いして広め歩きました。その結果が第2回パレードバンドフェスティバルで13団体の参加という形で現れたんだと思いました。

広岡
もともとは吹奏楽も野外で演奏できる音楽団体ですよね?オーケストラは野外では演奏しませんから。吹奏楽連盟の会長をしていた私の父も、パレードがあっての吹奏楽だ、パレードができなくてコンサート(座奏)だけはだめだとよく言っていましたよ。だから私はパレードをやったんです。しかし当時は理解してくれる方は残念ながら少なく、西洋ちんどん屋とよく笑われていました。マーチングなんていう言葉も当時はなかったくらいですから。だからパレードバンド、なんていう言い方をしていたんですけどね。

鈴木
あと昔を振り返ってみると、DCIのスタイルを日本で最初に取り入れたのは日本ビューグルバンドです。1970年に万博に出場した際に一緒に出ていたニューヨーク州にあるロチェスターという町の高校合同バンドのインストラクターが、DCAのクルセダースというバンドのメンバーだったんです。そこで日本ビューグルバンドの演奏を見ていろいろ話をした中で、日本ビューグルバンドさんアメリカ来ませんか?という話になったんですよ。そのあと5年かかりましたが1975年にフィラデルフィアで行われたのDCIファイナルにエキシビジョンでしたが参加することができました。このことがきっかけでDCIが日本に段々と認知されるようになっていったんです、私27歳でした。当時のDCIはとてもこだわりがあって、私たちがアメリカに行ったときは「Nippon Drum&Bugle Corps “Rising Sun”」という名前で行ったんですが、アメリカでは「Nippon Drum&Bugle Band」と紹介されました。B♭管、E♭管、F管が混在していましたから、アメリカ人からしてみればあれはドラムコーじゃない、バンドだと思ったんでしょう。当時はG管のビューグルを使っている団体のみがドラムコーとして名乗れるとされていたんです。こういうところにもこだわりがあるんだな、と強烈に感じました。

鈴木
日本ビューグルバンドという名前は私や広岡先生、また山﨑さん(全日本マーチングバンド・バトントワーリング協会事務局長の山﨑昌平氏、日本ビューグルバンド時代にはドラムメジャーも務めた。日本大学高等学校吹奏楽部卒)でつけたんですが、最初は広岡先生が「ビューグル」って言葉を持ってきました。これは当時フランス空軍のビューグルバンドのLPがあってそれを聞いていて自分たちでも音をとって演奏していたんですが、ここからついたんですね。ちなみに関東学院の最初は関東学院吹奏楽部だったんですけど、鼓隊になったときには関東学院鼓隊ででていましたね。

広岡
関東学院には3つくらい名前がついていたんですよ。今は関東学院マーチングバンドですよね、あと関東学院アカデミー、これはコンサートバンドです。もうひとつは関東学院サウンドウエイブ、これはスイングバンドです。ジャズなんかをやっていました。高等学校でジャズロックをやっていたのなんて関東学院くらいじゃないかと思います。

日本のマーチングの歴史を短時間ではあったがお二人にいろいろな角度から語っていただいた。最後に今後の課題についてお話をうかがった。

広岡
最近は技術的にはとてもよくなっています。昔に比べるとはるかにうまくなりました。しかし、心がないんですよ。これが気になります。先ほども言いましたがマーチングというのは動いてお客さんにどれだけ訴えられるか、というものですが具体的には音の全体的なバランスの中でどういう風にお客さんに訴えるのか、これができるバンドが現れたら日本のマーチングは変わります。

今私たちが当たり前のように使っている「マーチング」という言葉さえも昔はなかったというのは驚きであった。また昔はいかにマーチングの普及が大変であったかということもよく分かった。今日のマーチングシーンはDCIやブラストなどの影響などでまた急速に人気が出てきており、メディアにも多数取り上げられている。日本のマーチングが今まで以上に発展し、世間に認知されることを願ってやまない。

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