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たなか としこ/Toshiko Tanaka

Drum Corps Fun vol.5(2010年4月30日発行)に掲載

インストラクター

たなか としこ

「来年はこの景色をメンバーとして見てやる」

1992年に初めてDCIを観戦しに行った事が私の人生を大きく変えました。
憧れのロイヤルキルティーズ(現プライドオブソウカ)へ入部して3年目。一生に一度はドラムコーを生で見てみたいと思っていた私は先輩に連れられて渡米しました。
初めて見る本場の練習。初めて見る本場の大会。全てが衝撃的で華やかで、同い年であろうメンバー達が皆選ばれし雲の上の人に思えました。92年はキャバリアーズが初優勝した年。未だかつて経験した事のない歓喜の声に包まれた会場。興奮さめやらぬそのフィールドに降り立ち、振り返ってせり上がる客席を見た時に私は決意したのです。「来年はこの景色をメンバーとして見てやる」と。

ロイヤルキルティーズでは早くからアメリカ人講師を招いてショーを作っていました。その中でも当時マディソンスカウツのカラーガードを指導していたマイク・ターナー氏との出会いが無ければDCIへ行く事など考えもしなかったでしょう。
彼が来日した時に是非アメリカでマーチングがしてみたいと相談しました。有名なコーに入る実力などないと思っていたので、小さくて無名なコーで良いから紹介して欲しい…とお願いすると彼の口から“サンタクララバンガード”という名前が出てきたのです。「トシコが男だったらマディソンスカウツに来て欲しいんだけど女性は入れないんだ。バンガードなら充分やっていけるよ。」
サンタクララバンガード…オペラ座の怪人をやったバンガードだよね?屋根の上のバイオリン弾きをやったバンガードだよね?ボトルダンスのバンガードだよね?そんな有名なコーに入れるの?
大きな不安がありましたがまずはオーディションを受ける事にしました。今でこそHPを見ればどんな情報も手に入りますし、メールで問い合わせればすぐ返事がきますが、当時は手紙と電話の時代。(若い世代の皆さんには想像出来ないですね。)オーディションの日時は愚か何の情報も無いまま、とりあえずディレクター宛てに手紙を書き、フラッグとライフルの基礎練習、その年のショーをビデオに撮って送りました。しかしいつまで待っても返事は無く…やっぱりアメリカでマーチする実力なんか無かったんだ。そりゃそうだよ。メンバーは雲の上の人だったじゃない。
そう思っていた3月始め、1通の手紙が届きました。真っ白な封筒に見覚えのあるマーク…バンガードからの手紙でした。慌てて封を開けるとそこには『Welcome to Santa Clara Vanguard』の文字が。こうして夢は現実となったのです。
余談ですが、バンガードに入れたのはコネかもしれないけれど、技術で他の人に負けたらバンガードを紹介してくれたマイクに申し訳ないと思い、練習は必死でやりました。本番と同じエネルギーでランスルーをやり、力尽きて倒れた事もあります。しかしおかげでルーキーオブザイヤーという賞を頂き、技術や練習に取り組む姿勢も他のメンバーに負けなかったという証明が出来ました。
バンガードでの半年間はとても充実していたし、自分の技術が伸びていく事が嬉しくて仕方なかったと同時に、日本との技術の差を感じる毎日でもありました。インストラクターになろうなんて考えは全くありませんでしたが、自分の所属団体のレベルを上げたいと思うようになったのは事実です。

アメリカでやっている事をそのままやってもダメだ。

帰国してロイヤルキルティーズにスタッフをやりたいと願い出ました。恐らくこの時私はアメリカで学んだ技術と情報の全てを後輩に教え込もうとしていたと思います。教える事の難しさに加え、今までと違う考え方を無理やり押し付ける形になり、その年の結果は散々たるものでした。私が思い描くショーはつくれず、メンバーとも意見が合わず…だからと言って諦める訳にはいきません!このチームに合うやり方は何か、答えはすぐにでました。

アメリカでやっている事をそのままやってもダメだ。日本人はパワーは無いけど器用。フラッグは日本の団体の方が合ってるしダンスも上手い。まずは長所を伸ばせるような練習をさせてみよう。それからの私はアメリカでやってきたというプライドを捨て、マイク・ターナー氏の指導方法やショー構成、ダンスの技術を勉強。更にフラッグとウェポンの振り付けを担当するデイモン・パディラ氏にも師事し、振り付けを揃えるクリーナーとしてまたインストラクターとして必要な事を学ばせて頂きました。
メンバーとの信頼関係も一緒に練習したり悩みを聞いてあげているうちにより深く、確固たるものに変わっていったような気がします。
結果、3人でスタッフを務めたロイヤルキルティーズがDCIに初参戦した96年、見事ハイカラーガードを獲得する事が出来たのです。この事がキッカケで多方面から指導の依頼が舞い込むようになり、気が付けばインストラクターとして活動するようになっていました。

何事もやらないで後悔するより、やって後悔した方が納得出来ませんか?

挑戦する事を恐れないで欲しいです。

全ては出会いから始まります。その出会いが自分にとってチャンスだと思えば一直線に突き進むこと。それって動物的な勘なんですけど。何事もやらないで後悔するよりやって後悔した方が納得出来ませんか?
バレエの知識が必要だと思えばバレエを習い、ジャズの動きが必要ならジャズを習いました。筋肉や骨の造りは本を買って勉強。英語の本を翻訳しながら読む事もしました。手具の技術はWGIのチームに入って(29歳という高齢でしたが)学びました。今でもメンバーに混じってライフルの練習をしたり、家でもベッドの上でスピンやトスの練習をする事もあります。
そうやって得る事が出来た経験や知識が今の私を支えています。これからも年齢に捕らわれず常に新しい事に挑戦していきたいと思いますし、若いインストラクターやこれからインストラクターを目指す方々にも挑戦する事を恐れないで欲しいです。
そして何より、お世話になった出身団体に恩返しが出来るようになって頂きたいですね。自分を育ててくれた団体に直接関わるのはなかなか難しいと思いますが、いざ自分に声がかかった時は何でもさせて頂くという姿勢でいるのが大切かと。また団体の代表や顧問の先生方、一緒にショーを作っていくスタッフとの信頼関係もなければこの仕事は務まりません。例えばあるメンバーに厳しい言葉を投げかける場合があります。そういう時は団体内でそのメンバーをフォローする体制が整っているからです。フォロー体制が整っていない、或いは私と団体の間に確固たる信頼関係がなりたっていない場合は慎重に言葉を選びますね。インストラクターは憎まれ役を買って出なければならない時が多いのです(笑)でも嫌われ役で良いと思っています。

審査員は決して敵ではありません。

ここ数年は審査員の仕事をさせて頂く機会も増えました。これも故・有田先生(東京実業高校)との出会いがきっかけです。審査員を始めた頃は難易度が全く評価されておらず、ライフルを使う事はおろかフラッグのトスが無くても振り付けが揃っていれば良しとする時代だったんですね。誰かが難易度やコーディネートを含めた審査を始めなければ技術の革新は無いと思ったので、私が審査をする時は難易度やチャレンジングな振り付けを少々オーバーなくらい評価しました。今は公認審査員をさせて頂いているドラムコージャパンに適正な審査をするためのクライテリアがありますのでそれに沿って審査していますが、自分自身の中にある審査基準がブレないように気をつけています。しかし何度やっても難しいですね。減点法の審査ではショーが始まる前が100点で、ショーの中でミスがあれば点数を引いていきます。ドラムコージャパンの審査方法は加点法です。ショーが始まる前は0点で、ショーの中で良い部分を見つけて加点していくのです。日本ではこの加点法という概念そのものに馴染みがないので、私も慣れるまで時間がかかりました。大会後に行われるクリティークでもどこを直せば減点されないか、というような質問を受ける事がありますのでその時は気になった事を答えるようにしています。しかし本当は良かった部分、評価が高かった部分をしっかり伝えたいのです。審査員は決して敵ではありません。これだけは皆さんに伝えておきたい所です。
同じ審査基準をもった審査員はまだ少ないのが現状です。1日も早く審査員の教育と訓練が出来る機関がうまれ、審査員を公募できるようになると良いなと思っています!

カラーガードを始めて20年経ちました。我ながらよく続いたと思います。やはり私にとっては天職だったのかもしれません。でもここで一区切りですね。今後は新たな世界での活動も視野に入れております。マーチングに限らず新しい世界へ足を踏み入れるのは本当に勇気のいる事ですが、私の動物的直感が走りだせといっているので今まで通り走ってみようと思います!

最後になりましたが、私に様々な出会いを作ってくれたロイヤルキルティーズと当時のスタッフの皆様、私を支えて下さっているマーチング及びドラムコー関係団体の皆様、Drum Corps Fun編集部の皆様に心より感謝申し上げます。ありがとうございました。

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