Santa Clara Vanguard
Drum Corps Fun vol.3(2008年3月25日発行)に掲載
それまでの退役軍人会(VFW)主導の、愛国的青少年育成が主たる目的だった環境から、より創造的な大会環境を目指して構想されたDrum Corps International(DCI)創設に関わった、“名誉ある反逆”の13団体(彼らは米国開拓史になぞらえて“オリジナル・サーティーン”と呼ばれる)。その一角を占めるこの西海岸の有力団体は、後に続くマーチングの芸術的昇華に多大な影響を与えることとなる。
バンガードが創設されたのは1967年3月の初め。地元の団体『スパークス』の運営会議において、ドラム&ベル・コー(いわゆる鼓笛隊的なものと推察される)への転換が提案された夜。ドラム&ビューグル・コーとしての活動継続を望むメンバーと後援会が、スパークス音楽監督であったGail Royer(ゲイル・ロイヤー)氏をディレクターとして、まさにその夜から歴史を刻み始めたとされている。
当時は全国規模の大会こそ存在したが、それに向けて各団体が転戦(ツアー)するという環境は今ほど整ってはいなかったと言って良いだろう。それゆえに、町のリトルリーグ的に全国に無数にあった団体が、ローカルな規模でゆるやかなヒエラルキーを形成していた時代だったようだ。バンガードも地元の有名団体Anaheim Kingsmen(アナハイム・キングズメン)らの影響を受けながら、団体として(後から振り返ってみると驚異的なスピードで)成長を続けた。
余談になるが、このキングズメンはDCIの初代チャンピオンとして知られており、現在も最前線で働く創作者たちを最も多く輩出した団体のひとつ。しばらく後にバンガード中興の功労者となるピート・エモンス(ドリルデザイン)、故フレッド・サンフォード(ドラム)の2人もキングズメンのインストラクターとしてバンガードの初期からロイヤーとの交流を始めている。
バンガードが初めて強豪ひしめく中西部に向けてツアーをしたのは68年のこと。この年には初の主催大会「パシフィック・プロセッション」も開催している。この大会名は彼らの最初のレパートリー「Procession of the Nobles:貴族たちの行列(リムスキー・コルサコフ)」から名づけられたものだそうだ。もちろん現在まで継続している。
翌69年に彼らバンガードは初めて東海岸に足跡を残す。ワールド・オープンとVFW(どちらも全国規模の大会)への参戦が目的であり、これ以降彼らはカリフォルニアのみならず全米にその名を轟かせる強豪となってゆく。
筆者の年齢とG管ビューグルへのこだわりが理由であろうが、70年代から90年代のDCIにおいて、バンガードは、その一挙手一投足を注目せずにいられない団体だった。(もちろんビデオでしか見られませんが)
先述のエモンスやサンフォードの職人芸がロイヤーの天才的なヒラメキを支え、ファンが最も安心して没入できる団体という意味では、この時期のバンガードに勝る存在は稀だと思う。
先駆者の名に相応しく、彼らは多くの“初めて”を残している。ガード全員によるダンスの嚆矢となったのが、あまりにも有名な「ボトルダンス(屋根の上のバイオリン弾き)」である。他にも「青少年のためのドラムコー入門」を一度聴いてみてほしい。団体の演奏力という言葉の意味が実感できるだろう。あるいは「ガイーヌ」、「ホパック」を一度観てみてほしい。ドラムコーが無名の若者の「貢献」の集合物と分かるだろう。
因みに学校教師であったロイヤーの生徒を多く含む団体が73年からDCIに参戦し、瞬く間にバンガードと肩を並べるライバルに成長している。言わずと知れたブルー・デビルズだ。この「ご近所ライバル」関係も互いの切磋琢磨に貢献したはずである。ロイヤーとマクスリー(80年代BDディレクター)の師弟ツーショットが拝めるのは89年のビデオだったか。
そして80年、彼らは4度のDCI優勝というキャリアを尻目に、ドラムコーの芸術性に対する大手術を敢行する。
ピート・エモンスの描いた、ショウ全般を通じての「左右非対称ドリル」という荒業である。
近年CDで再発売されたこの年のスタジオ録音『State of the Art』には、しかしファイナルとは似ても似つかぬ演奏が収録されている。中盤の「キャラバン」が前衛的なドリルデザインに対し技術的な問題を多く抱えてしまったそうで、ロイヤーはシーズン途中で楽譜から入れ替えるメジャーチェンジを決断せざるを得なかった。(曲は70年代的な停止演奏の多い「エビータ」メドレーに変更されている。)
結局バンガードは7位という信じられない成績でシーズンを終えたが、その英断は多くのライバルにドラムコーに成し得る技術的な可能性を示した。
後のことだが、この革新を最も上手く理解し消化したのがジョージ・ジンガリ描くところのドリルであり、彼を抱えるガーフィールド・キャデッツはDCI史上初の3年連続優勝を果たした。
翌81年、バンガードはこの非対称ドリルの進化形と、得点の伸び悩みの中で培った圧倒的な演奏力を開花させて第一位に返り咲く。この演奏力を飛躍的に伸ばしたのが新進の吹奏楽・オーケストラ指導者ティム・ソルツマン教授(ブラス)と、キングズメン出身のラルフ・ハーディモン(ドラム)だった。この2人を核とする指導体制は86、87年の「ロシア」音楽まで続く。
この間、デビルズやガーフィールド、ファントム・レジメントを初めとするライバルの間では演奏力の向上と、レパートリーの開拓が絶え間なく進化した。前者においてはガーフィールドの変拍子や超高速演技、後者においては単一の映画やミュージカル音楽でショウを構成するというトレンドが形成された。
バンガードは最新のトレンドと技術的発展を見事に融合させ、新たな伝説を作った。
おなじみ88、89年の「オペラ座の怪人」である。
ゴードン・ヘンダーソン(ブラス)の天才的アレンジ能力は、10分のフィールドショウに2時間のミュージカルを見事に収めきり、ラルフの育てた名手たちが驚異的な32分音符を刻む。バンガードが常にバンガードたり得るのは、これらの大御所の影から新たな才能が次々と芽吹くという点にある。「オペラ座」の2年間で頭角を現したのはドリルデザインのマイロン・ローザンダー。最近になって彼のこの時期の創作についてのインタビューが出版されている。(『Not For the Faint of Heart』 wildride publications刊)続く「ミス・サイゴン」と共に、バンガードファンが必ずフェイバリットイヤーに数える時期である。
92年は全てのドラムコー・ファンにとって忘れられない年だ。DCIが20周年を迎え、ファンにもプレイヤーにも一番人気の町ウィスコンシン州都マヂソンで盛大な記念大会が開催された。
バンガードを見守るファンにも一生涯記憶から去らないシーズンと言えるだろう。シーズンの途中にロイヤーの引退が発表されたのだ。その心を表すかのように、ショウは彼らのトレードマーク「屋根の上のバイオリン弾き」。構成は至ってシンプルかつ硬派であり、ガードのフラッグは全編を通じて一種類のみ。スタート位置もサイドラインに縦一列という回顧調。しかし演奏は最前線の音作りで管・打楽器奏者を狂喜させた。ちなみにこの年のメンバーとしては、現在ドラム指導の最先端にいるコリン・マクナットがスネアに居たのではなかったか。
嵐の「ボトルダンス」と「SCV」の人文字をフィールドに刻み付けてバンガードの「ロイヤー時代」は終わった。
ここから先は現在の研究者たちに筆を譲ろうと思う。“先駆者”の最前線を語るのは、彼らと同じスピードで歩いている人の方が相応しい。ロイヤーは引退後間もなくこの世を去った。指導者の生き様を団体の在り方に投影する時代は終わったように思う。しかし私たちは応援せずにはいられない。彼らが「今」奏でる音こそが、ドラムコーの最前線なのだから。(野尻 健)
’88年『オペラ座の怪人』のエンディングでメンバー全員が姿を消すというマジックをはじめ、翌‘89年のDCI最高得点98.8ポイントは2002年キャバリヤーズに破られるまで、実に13年間を守り続け、我々の記憶に残る数々の名演を披露してくれた。97年から3カ年計画で順位を確実に上げて99年に優勝。94年から2004年まで常にトップ6入りを果たし、2004年には往年のサンタクララを思わせるようなクラシックの大曲をレパートリーに取り上げて見事に3位を獲得した。2007年には40周年を迎え、その栄光の歴史は輝き続けている。日本でも多くのファンを持つコーである。