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  • マーチング・ドラムコーの世界で活躍するトップランナーを紹介

目良 康浩/Yasuhiro Mera

Drum Corps Fun vol.4(2009年4月18日発行)に掲載

インストラクター

目良 康浩

嬉々として練習に参加するようになったのを覚えています

「練習終わったら、すき焼きパーティーやんねんけど、見に来へんか?」
そんな誘いにまんまと乗ってしまったのがマーチングとの関わりをもつ始まりでした…。
私の出身は和歌山県の田辺市という人口6万人ほどの絵に描いたような田舎の町で、そこに在った創価学会の音楽隊に“すき焼きパーティー”に釣られて入隊し、アルト・サックスを吹き始めました。中学でも吹奏楽部に入ってアルト・サックスを担当していたいのでサックスを選んだ訳ですが、どうも年長者の中でじっと座って吹くということが性に合わず、あまり練習会には参加しませんでした。
基本的に落ち着きのない子供でしたから。(笑)そんな時、音楽隊の中で座奏のみを行う「シンフォニック隊」とパレード、ステージドリル等マーチングを中心とする「ドリル隊」に分けるという話があり、以前見たバンドのステージドリルに衝撃を受けていたので、一も二もなく「ドリル隊」を選びました。それからは嬉々として練習に参加するようになったのを覚えています。
その後、高校一年の冬に「ドリル隊」を「ビューグルバンド」に組織替えをするということで、16ミリフィルムを見せられたんですが、それが1974年のDCIチャンピオンシップの16ミリだったんです。他にマコーミック社が制作した「Competitive Drum Corps」という16ミリも上映されました。度肝を抜かれるとは正にこのことで、「これをやりたい!」って即座に思いましたね。一緒に来ていたメンバーも同じで、映写が終わったあと、みんなの目が輝いてプレゼントを貰う前の子供のようなワクワク感を今でも忘れられないですね。一昨年、M協の全国大会で審査員をさせていただいた際、同じく審査員の山本富夫先生とお話をする機会があり、その時見た映像が山本先生によって撮影されたものだと知って感激を新たにしました。

間もなく全員で1ピストン1ロータリーのビューグルを購入し、和歌山の田舎町にDrum Corpsが誕生しました。私は、見た目のかっこよさからフレンチホルン・ビューグル(ゲッツエン社のロング管タイプ)を選びました。
ただ当時は、練習や選曲をするにも全くの暗中模索で、大阪、兵庫から流れてくるDCIのテープなどの資料が唯一の手がかりでした。今になって思えば、それは1977年のDCIチャンピオンシップのテープで、擦り切れるほどそのテープを聞きました。
演奏に混じって聞こえる、ライフルのスピンの音、カラスの鳴き声、審査終了を告げるピストルの音、どこのどのタイミングでその音が入るかまで今でも歌えますよ。

高校を卒業して八王子の創価大学に入学後、寮の友人に誘われて富士吹奏楽団の東京ビューグル(現創価ルネサンス・バンガード)に入隊し、そこでもフレンチホルン・ビューグルを担当しました。
東京ビューグルでは、Drum Corpsやマーチングについて、その後の“マーチング人生”の基礎となるようなことを色々学び、経験できました。特にビデオ、レコードといった資料が豊富に手に入り、DCIやDCAについて造詣の深い先輩もたくさんいらっしゃったので、今まで疑問に思っていたことや誤解していたことがクリアになっていきました。また、様々な大きなイベントにも出演させていただき、マーチングの楽しさや感動を再認識させられました。

全員が自分達に足りないものを明確にできた初戦敗退でした

東京ビューグルでの活動は大変充実したものでは有ったのですが、様々な出演を経験する中で「これが大学のクラブで出来ればすごいだろうなぁ」「大学のクラブなら長い夏休みを利用してDCIに出ることも出来るのでは?」と考えるようになり、そんな夢を友人達と語り合う中で1981年の11月に同期生5名と「Drum Corps愛好会」としてクラブを立ち上げ、私が初代部長となりました。そして、大学祭のイベントでデビューを果たしました。今となっては恥ずかしい限りのショーだったのですが、意外と反響が大きく、大学の同期や先輩がとても応援してくれました。その翌年(1982年)には、地元からの後輩で、今は湘南台高校の指導等に頑張っている大川君をはじめとする1年生が多数入部してくれたおかげで人数も増え、次年度のM連(現M協)の大会目指して衣装を誂え、コー・ネームを「ロイヤル・キルティーズ」として同好会に昇格、本格的に活動を始めました。
まず、足りない楽器の購入資金を稼ぐため、様々なイベントに出演しました。大学のお昼休みにみんなで原付バイクに楽器を乗せ、近くのスーパーの開店イベントでファンファーレを吹き、そのまま大学に戻って午後の授業を受けるというような“機動力命!”みたいな出演が多かったですね。依頼する側も、平日に出演してくれるバンドが少ないこともあり、なかなか重宝されたものです。

残念ながらその翌年(1983年)に初参加したM連の大会は、都大会敗退という苦い初挑戦でした。私もスネア・ドラムで出場したのですが、全員が自分達に足りないものを明確にできた初戦敗退でした。その後は、メンバー全員が自らの技術に貪欲となり、他の団体の演奏会にも全員で出かけて良い所を盗もうと必死でした。
その中でも、ほぼ同じ時期に設立されたヨコハマ・インスパイヤーズのコンサートには圧倒されました。まさに“インスパイヤー”されました。(笑)全ての演奏・演技が完璧でスタイリッシュ。
「インスパと肩を並べるくらいにならないと、関東大会を突破できないぞ!」とメンバーに発破をかけたとき、みんな顔面蒼白になっていましたね。かく言う私もメンバー以上に「やばい!」と思い、無い知恵を絞ってドリルを書き、ショーのグレードを上げるために思いつくことを全てやりました。
当時、RK(ロイヤル・キルティーズ)にはコントラバスが2台しかなく、どうしても低音が弱い感じがしたので、同じ大学の吹奏楽部からティンパニーを借りて私がプレイすることにしました。しかし、そのティンパニーにはチューニングをするゲージがなかったので、演奏中はチューナーを使ったり、演奏しているビューグルの音に合わせたりしてチューニングするしかなく、ティンパニー初体験の私はかなり苦労しました。おまけに吹奏楽部が使っていないときしか練習できないため、限られた練習時間の中、本当に必死でした。でも、当時としてはティンパニーをフロアで使うところがほとんど無かったので、それなりに効果はあったのではないかと思っています。その甲斐あってか?茨城県の土浦で行われた関東大会で全国大会初出場を勝ち取ることできました。関東大会当日は、楽器の積み忘れ等のトラブルが多く、不安だらけの中での勝利だったので、その喜びもひとしおでした。
大会後、目標としていたインスパイヤーズとお互いの健闘を讃え合って「You’ll Never Walk Alone」を会場の外で合同演奏したときには、自然と涙が出ましたね。

目が輝いてプレゼントを貰う前の子供のようなワクワク感を今でも忘れられないですね。

多くのアメリカ人インストラクターを早くから招聘

大学を卒業してからも、コー・ディレクター、プログラム・コーディネーター、ドリル・デザイナーとしてRK、プライド・オブ・創価をサポートしてきました。1985年の大分・尼崎への演奏旅行、1988年の韓国遠征、1997年・2000年のDCI参戦、2002年の第2回韓国遠征と素晴らしい経験をさせてもらいました。2004年に後進に道を譲り、今は1人のOBとしてプライド・オブ・創価の活動を見守っています。
RK時代は、多くのアメリカ人インストラクターを早くから招聘して、ショー作りの手伝いをしてもらいました。本場のDCI、Drum Corpsについての新しい情報や、技術的なアプローチ等、彼らから多くのことを学べたことが、私の掛替えのない財産となっています。特に、1991年からカラー・ガードのインストラクターとして10年間来日してくれたマイク・ターナーから受けた影響は、私にとってかなり大きなものでしたね。彼は毎年約1ヵ月間私の家に滞在して、カラー・ガードの振付やビジュアル・コーディネートを手伝ってくれました。ドリル・デザインにおいても、彼の意見やアイデアを参考にしてデザインできたので、現場に下ろしてからもスムースに練習が運び、彼のコーディネートによってショーが劇的に良くなったのを何度も経験しました。また、彼がサンタクララ・バンガードのキャプション・ヘッドをしているときには、サンタクララがショーで使ったフラッグ一式をRKのために無料で持って来てくれたりしました。1997年のDCI初参戦の時も、今まで携わってくれたアメリカ人インストラクターや彼の友人にメールを送り、我々のツアーが有意義なものになるよう全面的にサポートしてくれました。行く会場毎で他のCorpsのインストラクターやディレクターを紹介してくれ、彼らから我々のショーに関する感想や色々なアドバイスを聞けたり、情報を交換できたりと、彼の顔の広さにとても助けられました。おかげで、カラー・ガードはディビジョンⅡ・Ⅲの中でハイ・カラー・ガードを取ることができました。彼とは今でもメールで近況を報告しあったりしているんですが、本当に感謝しています。

審査に関する研鑽を怠らないようにしています

2002年には、初めて関東大会の審査員をさせていただきました。
それ以前から、亡くなられた東京実業高校の有田先生より審査員をするように依頼されていたのですが、自信がなくずっとお断りしていました。しかし、「もう断らせないよ!」と重量級(笑)の説得をされ、不承不承お引き受けしました。マーチングにおいて、審査をする私よりもあきらかに力量が上の方たちが携わったショーについてコメントしたり、点数を付けたりするのは、とても不遜なことのように思えて…大変恐縮しながら審査をさせていただいたのを覚えています。この気持ちは、今となっても全く変わりませんね。ですから、出来るだけショー作りに役立てていただけるようなコメントが残せるよう、DCJ、DCI、WGI、DCEやアメリカの地方で行われているマーチング・コンテスト等のクライテリアやジャッジ・マニュアルを手に入れ、審査に関する研鑽を怠らないようにしています。だいたいのジャッジ・マニュアルには、ショーを制作した人や演者に対する敬意と尊敬の念を持って審査するよう書かれているのですが、私からすると至極当たり前というか、それなくしては審査できないように思います。
1997年、2000年とDCIに参戦した時に受けたクリティークや、DCIでジャッジをしている友人から聞いた情報等も、審査をする上ですごく役に立っています。聞いたときにはそれほど気にも留めて無かった事でも、いざ審査をする立場になると気付かされることが多いですね。
今は、審査をさせていただくことで私自身勉強になることが多く、本当に貴重な経験をさせていただいているなと故有田先生を始め、審査を依頼してくださる方々に感謝しています。

「ヴォイス・オブ・DCJ」でも目指そうかと思っています

DCJでは、その前身の「ドラム・コー・フォーラム」を立ち上げの頃からお手伝いさせて頂いています。
具体的には、「DCJ八王子オープン」で実行委員長をさせて頂いたり、チャンピオンシップ等イベントの演出・進行等をお手伝いさせて頂いています。また、一昨年から味の素スアジアムで開催されている「DCJオールジャパン・チャンピオンシップ」では、英語のナレーションをさせてもらっています。 “Voice of DCI”ことBrandt Crockerの向こうを張って「ヴォイス・オブ・DCJ」でも目指そうかと思っています(笑)。
また昨年から、アレンジャーの熊谷淳さんにお声を掛けて頂き、「星野学園マーチング・バンド」のドリル・デザインを担当させて頂いています。RK、プライド以外の団体のドリルを書いた経験がほとんどなかったので、最初は、ドリルのレベル設定に悩みました。RK、プライドをデザインしていた頃は、ザーッと短時間で書き上げて、メンバーの度量を見ながらバンバン修正を加え、最後には初めの形がないくらいに変更して「はい!完成」みたいなアプローチだったのです。メンバーに初心者が多かったので、修正の度に新しいドリルを経験させることにより彼らのドリルへの対応力・経験値を上げていくことも狙ってそういうやり方だったのですが、それはRK、プライドが大学のクラブというある種、特殊な環境にあったからこそ出来たことで、それ以外の団体となるとなかなかそういったアプローチは出来ないと思うのです。現場にドリルを下ろした段階でほぼ完成形という、ごく当たり前なことが求められる中で出来るかなという不安が有りました。幸いというか、顧問の先生方やスタッフ、生徒達に助けられて初年度をどうにか乗り切りましたが、まだまだ自分の力不足、勉強不足を痛感させられた1年でした。本当に、生涯勉強です。

“怒濤をも打ち砕く若い情熱”で全てにチャレンジしてほしいですね

これからの若い世代には、自分に限界を設けないでがんばって貰いたいですね。以前読んだ本の中で「『できない』という言葉を安易に使ってはならない。それはあらゆる可能性が排除されて、100%不可能な場合にのみ初めて使える言葉だ」という趣旨の内容が書かれていたのですが、私も含め、ついつい「これは無理」って安易に自分で決めてしまっているように思うのです。だから、難しく思われる譜面やドリル、DCIでマーチしたいという夢も「必ずやってやる!」っていう意気込みで臨めば、必ず拓けていくと思うので、 “怒濤をも打ち砕く若い情熱”で全てにチャレンジしてほしいです。
若い間は変にまとまらないで、少しやんちゃなくらいで行った方が良いです。いろんな場面でぶつかり合い、頭を打つ中で自ずと大きなスキルを身につけて行くことができますから。

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